図書館で目にした映画のシナリオ集に『ソナチネ』(北野武・監督脚本)が載っていたので借りて読んだ。 映画を何度か見ているからだろうが、脚本を読むだけで各シーンがありありと浮かび上がる。 まさに脚本は映画の表象だな〜。その当たり前のことが新鮮に感じられたのは、しかし映画のほうは何かの表象ではなく映画そのものであるべきだという、重要なことを賢明にも思い出したからだ。言い換えれば、あらゆるシーンが別の何かを説明(表象)するだけのためにあるような実につまらない映画もあるということ。 そして、もう一つ考えた。脚本の文章は映画の表象だが、では小説の文章も何かの表象なのか。そうではないだろう。小説の文章は、映画が映画そのものであるように、小説の文章そのものであるべきだ。 さて、『ソナチネ』は、やくざの組長である村川(北野武)が、親の組の陰謀によって、沖縄の別の組の抗争に巻き込まれてしまう話。村川は行きたく