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宗教に関するmetamorphのブックマーク (3)

  • 我信ずは真である――科学的に - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

    ただしもし論理学が科学であるならば(そうしてたぶん多くの人はそれに同意するだろう)。 私は神を信じる。天と地の造り主を信じる。主なるイイスス・ハリストスを信じる。聖神を信じる。聖にして一つの公なる使徒の教会を信じる。これらの言葉は真実であると知りなさい、なぜなら私はそう信じているからだ――だから、私が神を信じるという、その詞は真である。 近代論理学と古典論理学を分かつ概念のひとつは命題の階梯だ。クレタ人のパラドックスがパラドックスであったのは、たんに自己言及命題だったからではない――むしろ「XはAである」と「XはAであるとYはいう」の論理的構造の違いを古典的枠組みが把握しきれないところにパラドックスが生じた(カントのアンティノミーじゃないが、パラドックスのなかには命題の性質を無視したところで命題を操作することで生じるものがある)。 繰り返す。「私はAを信じる」、書き直して「Aがあることを私

    我信ずは真である――科学的に - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
    metamorph
    metamorph 2009/01/25
    問題なのは「宗教」というくくりの内実が何なのかということの方じゃないかという気がしますけど。
  • 疑似科学批判者がしてはならないこと - 地下生活者の手遊び

    前回のエントリの続き。 疑似科学批判に対して文句をつけるにあたり、僕はドーキンスを念頭においていますにゃ。自然科学という知的体系を高く評価するがゆえに、「神は妄想である」のドーキンスが「自然科学を宗教のようなイデオロギーにしてしまっている」点、つまり確かにある種の疑似科学批判において、宗教と科学の区別がつかにゃーようなことになっているという理路を以下に示してみたいと考えますにゃ。 参考として ドーキンスの「神は妄想である」への直接的な批判エントリをリンクしておきますにゃ 「神は妄想である」書評(1 - 地下生活者の手遊び 「神は妄想である」書評(2 - 地下生活者の手遊び 「神は妄想である」書評(3 - 地下生活者の手遊び 自然科学は公的原理 政治という社会行為においては、司法・立法・行政のいずれにおいても自然科学の知見をシカトすることは許されにゃー。 例えば、いつどこで大規模な地震がある

    疑似科学批判者がしてはならないこと - 地下生活者の手遊び
  • ニンゲンは賭けをする。そのとき科学は宗教になる。(追記アリ - 地下生活者の手遊び

    とりあえずは荒っぽくメモがわり。 知と信 目の前にコップがひとつあるとしますにゃ。ここで、僕たちは目の前にコップがあることを【知って】いるわけですにゃ。このとき、目の前にコップがあることを【信じて】いるとは言いませんよにゃ。 つまり 知っていることを信じることはできない 信仰というものは、知ることの不可能な対象を信じることだと考えますにゃ。 一方、科学による知の対象というのは、知ることができるものに限られるわけですよにゃー。 というわけで、この基準を持ち出すと、宗教と科学はきれいにわかれてしまうことになりますにゃ。 もちろん、話はそんなに単純ではにゃー。 では 目の前にある部屋に、致死性の病気をもたらす病原菌がうじゃうじゃいる という命題を考えてみますにゃ。 これは基的には自然科学の命題、すなわち【知る】ことのできる対象ですにゃ。 しかし、病原菌を直接的に知覚することはできにゃーので、生

    ニンゲンは賭けをする。そのとき科学は宗教になる。(追記アリ - 地下生活者の手遊び
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