水戸藩の幕末争乱(天狗党の乱)と民衆 水戸藩の尊攘派のなかでも、藤田小四郎(東湖の息子)・田丸稲之衛門らが率いる激派は天狗党とよばれた。彼らは文久3年(1863)ごろから攘夷の実行をとなえ、水戸藩の各地につくられていた農民の教育機関の郷校を拠点に活動し、元治元年(1864)3月筑波山に挙兵した。天狗党は宇都宮をへて日光の東照宮に参拝し、太平山をへて筑波山にもどった時には 700人に達していた。隊員の武器や衣食のために巨額の資金が必要になり、近辺の町村の役人や富商・豪農への強要にたよったため、天狗党の評判は急速に悪くなった。ことに天狗党との意見の違いから飛び出した田中愿蔵らが、軍用金の提出を拒んだ栃木町を焼き打ちしたことが、これに輪をかけた。 水戸藩内には、ゆるやかな改革をめざす尊攘派の鎮派と、尊攘派と対立する保守派もいた。保守派は市川三左衛門・朝比奈弥太郎らが藩校弘道館の学生らを結集して江
天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の乱(げんじかっしのらん)[注 1][1]ともいう。 背景[編集] 天狗党の発生[編集] 文政12年(1829年)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室・峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊)を迎えるべきだと主張し、藩内門閥層の大多数も、財政破綻状態にあった水戸藩へ幕府からの援助が下されることを期待してこの案に賛成した。これに対して、同年10月1日、藤田東湖・会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して、徒党を組んで江
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