出身は魏の大梁。青年時代に魏の公子である信陵君の食客になったことがある。信陵君が政治から引き離されたりなどの事情あって、外黄に移住した。現地の富豪の娘を娶り、妻の実家の援助で、魏に仕官し、外黄県令となった。この頃に長男(名は不詳)や次男の張敖が誕生したらしい。 同郷の陳余が張耳に仕えており、まるで父子のようであったが、かつての藺相如と廉頗に倣ってお互いに首を斬られても良いという刎頸の交わりを結んだ。 また、この時期に食客を望んで張耳の元を訪ねてきた、まだ庶民の頃の劉邦を受け入れていたという。 紀元前225年に魏が秦によって滅ぼされると、張耳と陳余は名を変えて陳のある村の門番となった。既に二人の名は世に知られており、秦に狙われていたためである。そこで村役人に陳余が因縁をつけられ、袋叩きにされるという災難に遭うが、張耳が「将来のためにつまらないことで命を落とすべきではない」と慰めて支え合ったと