「せんせい、みずをください」 消え入るような声で、たまたま通りかかった先生を呼び止めた13歳の女の子。 先生は水をあげることもできずに、女の子の手を握りしめることしかできませんでした。 数日後、女の子は、ひとり息を引き取りました。 (国際部・栄久庵耕児) 私(筆者)は東京で生まれ育ちました。 でも、幼少期を広島市で過ごした父は、私が小さなころから何度も、原爆で亡くなった、父の姉の話をしてくれました。 私の伯母にあたる彼女の名前は、栄久庵昌子(えくあん・ひろこ)。 13歳で亡くなりました。 会ったことはありませんが、親しみを込めて、ここではあえて「昌子さん」と呼びたいと思います。 今から75年前、広島市の山中高等女学校の2年生だった昌子さんは、空襲に備えて建物を取り壊す作業に加わり、炎天下の中で家の瓦の片づけをしていました。 しかし、そこから1キロほどしか離れていない場所に原爆が投下され、昌