「少なくとも、死ぬ覚悟もないような連中は、彼らを批判することなんか、できっこないんです。彼らよりも楽なところにいた人間が、批判なんかできないはずです」 (『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』朝日新聞社) これはただの特攻隊の論理であり、自死した三島と同じ論理だ。 命かけようが死ぬ覚悟があろうが、駄目なものは駄目であり、愚劣なものは愚劣なのだ。 駄目なものや愚劣なものを批判する権利は、命などかけていないちゃらんぽらんな人間だろうと、だれにでもある。やっぱり、若松は間違っている。 そもそもこのような論理こそが、「命のかけあいっこ」による運動の無謀な急進化と、さらには組織のメンバーに対して「革命兵士」として「死ぬ覚悟」を求めるという「共産主義化」の論理と「総括」を招いたのではないか。 結局、若松は絶望的なほど事件からなにも学んでいない。 ようするにこの人は、ただのロマン主義者でしかな