当時の朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持していており、1869年に日本の明治政府が王政復古を朝鮮に通告したときも、中国の皇帝が朝鮮に下す「皇上」や「奉勅」などの言葉が用いられていることを理由に受け取りを拒否した。1876年の江華島事件を経て日朝修好条規が日朝間で締結されて国交は結ばれたが、日本は条約締結の際に朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるために「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と記載させ、朝鮮を「属邦」とする清国と対立する下地が生まれた[3]。その後、李氏朝鮮は米国との条約提携を清朝に依頼し、天津で交渉にあたった李鴻章は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」という条文を盛り込むことを試みたが、アメリカ側が属国(属邦)と条約は結べないとして反対したため断念した。しかしながら、李氏朝鮮の高宗は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交