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2012年5月21日のブックマーク (4件)

  • 家入一真さんの例の件で願うことなど - やまもといちろうBLOG(ブログ)

    例の件。 一言で言うと、就学希望児童に対する助成を、ネット業界の軽いノリで手がけるのはやめて欲しいのです。 いままでは、家入さんの志は凄く良い、ただ表現が悪かっただけ、というニュアンスで、まあ燃えてしまったとしても「ええがな」と思う人も多数あったとは思うけれども、批判が殺到して、ひくにひけなくなって、というところもあるんでしょう。 ただねえ、就学希望児童への資金助成等の事業というのは、デリケートなんですよ。私も、例年薄額ではありますが児童養護施設に寄付をしておりましたが、就学希望の学生の選別や、方針について、不公正とならぬよう、それでいて助成がきちんと実を結ぶよう、関係者一同かなり丁寧に議論を積み重ねて、就学希望者に資するような事業を行っていただいております。金を出す私たちが、もちろん一人ひとり面談をして助成するのが望ましいと思うんですけれども、学業を続けたいが事情によってお金が払えない、

    家入一真さんの例の件で願うことなど - やまもといちろうBLOG(ブログ)
  • Journal de Marie Bashkirtseff-マリ・バシュキルツェフの日記

    天気が優れて良いにもかかわらず、バスティアン・ルパージュはボアへは行かないでここへ来る。彼はほとんどもう歩くことも出来ない。彼の弟は彼を両腕の下から支えて、ほとんど担ぐようにして彼を連れてくる。 そうして、やっと安楽椅子にかけると、その気の毒な子供は疲れ切ってしまう。私たちの惨めさよ! それに、大勢の門番どもはなんと健康に暮らしていることよ! エミルは立派な弟である。ジュールを背負って彼らの4階まで登ったり降りたりするのは彼である。私はどうかと言うに、私もそうした献身をヂナから受けている。──この2日間私の床は客間に移された。でも部屋が非常に広くて、衝立や、大椅子や、ピアノで仕切られてあるから、外からは見えない。私には階段を登るのが困難である。 * 〔日記はここで切れている。──マリ・バシュキルツェフはそれから11日後の、1884年10月31日に死んだ。──そうしてジュール・バスティアン・

    Journal de Marie Bashkirtseff-マリ・バシュキルツェフの日記
    minemew
    minemew 2012/05/21
  • マリ・バシュキルツェフ - Wikipedia

    マリ・バシュキルツェフ(Marie Bashkirtseff)ことマリヤ・コンスタンチノヴナ・バシュキルツェヴァ(ロシア語: Мария Константиновна Башкирцева、1858年11月11日 - 1884年10月31日)は、ウクライナ出身の画家・彫刻家・日記作家。 ノヴォロシアのポルタヴァ近郊ガヴロンツィに、富裕なロシア人貴族の家庭に生まれ、母親に連れられ欧州各地で育つ。個人指導で教育を受けたが、フランスで、当時女学生を受け入れた数少ない機関であるアカデミー・ジュリアンに入塾して絵画を学ぶ。この美術学校には欧米各地の若い女性が集っており、中でもルイーズ・カトリーヌ・ブレスラウをバシュキルツェフはライバル視していた。 バシュキルツェフは短い生涯のうちにかなりの量の作品を遺しており、パリの貧民街の子供たちの姿を描いた「集合」や、女性画家仲間の群像である「アトリエにて」はと

    マリ・バシュキルツェフ - Wikipedia
    minemew
    minemew 2012/05/21
    知らなかった
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