近頃、AccuRadioのクラシカルで、柄にも無くバッハをよく聴いている。 グレングールドとヨーヨーマ以外、クラシックは苦手だけど、なんか心をシンとさせたいときには、バッハが合う。良く言えば「哀愁のある」、悪く言うと「暗い」旋律がぴったりくる。おれ、暗いの大好き。 ただ、よく考えると、グールドで好きな「ゴールドベルク変奏曲」や、ヨーヨーマの「無伴奏チェロ組曲」って、どっちもバッハや(^^;)。 で、今日、テレビでバッハの「マタイ受難曲」を2時間観られるというので、とりあえず「探偵!ナイトスクープ」までのつなぎで観始めたら、結局、0時40分まで2時間ぜんぶ観てしまった。ドイツ人のそれぞれの歌い手が個性的で、演奏もきれい。とりわけ長髪の、恰幅のいい男性の歌いっぷりは、鬼気迫るものがあるというか、完全にイッテる感じ。キリストがゴルゴダの丘へ連れて行かれる場面、彼のアップテンポな独唱とバイオリンの
(承前) では19世紀から20世紀はじめにかけての日本を、バッハとの出会いという視点から眺めてみましょう。19世紀の禁教鎖国時代の日本でも、西洋音楽を耳にする機会はありました。たとえば1826年(文政9年)長崎から江戸へと赴く際、シーボルトは小型のピアノを携行し、江戸の知識人に演奏を披露したといいます[1]。このときシーボルトが何を演奏したかを知る術はありませんが、すでにこの時代、日本人は西洋音楽に触れることが可能となっていたわけです。とは言え、それが本格化するのは1858年(安政5年)の米英露蘭仏との修好通商条約締結後、あるいは1866年(慶應2年)の海外渡航解禁以後のことでしょう。 日本とバッハとの出会いに関して、史資料により裏付けられる最も初期の例は1872年のものです。1871年、日本の新政府は、岩倉具視らを使節団として欧米12カ国へ派遣しました。その様子をまとめたのが久米邦武編纂
バッハと日本のつきあいは意外に古く、すでに140年ほどの歴史を刻んでいます。そのせいか日本はいまや、バッハ研究・バッハ演奏の両面で多くの人材を供給する「一大産地」となりました。小林義武、樋口隆一、三宅幸夫、富田庸、礒山雅らバッハ学者、鈴木雅明&バッハ・コレギウム・ジャパンを代表選手とする多くのアーティスト(敬称略)を産んでいます。とはいえ、日本が突然バッハびいきになったわけでは、もちろんないでしょう。ここで日本とバッハの一世紀半を復習してみます。 ...................................... 日本とバッハとの関係を考える際に重要な点は、その黎明期がドイツにおけるバッハ復興期と重なり合っているということ。資料がないため、日本人とバッハの最初の接触の詳細を特定することはできません。しかし数々の状況証拠と最初期の記録などから、その黎明期をいくらか再構成することは可
現在ネット上で見ることのできる、バッハの声楽作品日本語と英語対訳へのリンク集です。 それぞれの訳は次のサイトにあるものです。 行間: 行間訳形式の拙訳 カンタータ対訳集 小林: 小林英夫訳 京都バッハ合唱団より演奏会記録のページ (上記リンクを編集したのが当サイト→小林英夫氏のカンタータ解説・対訳のページ) 川端: 川端純四郎訳 バッハ・平和・教会音楽よりA.バッハのページ歌詞対訳の項 (上記を行間翻訳の形にアレンジしたのが当サイト→カンタータ対訳集(川端純四郎訳)) 鎌倉: ターフェルムジーク鎌倉訳 ターフェルムジーク鎌倉より曲目解説のページ 神戸: バッハクライス神戸訳 バッハクライス神戸より解説・歌詞対訳のページ 大村: 大村恵美子訳 東京バッハ合唱団より日本語歌詞のページ 他:(世俗カンタータ対訳は孤立したページです) Am: Z. Philip Ambrose 訳 Texts o
2023年4月18日(火)、「サンシャイン60展望台」が「サンシャイン60展望台 てんぼうパーク」としてリニューアルオープンしました。海抜251mの高さからは360度の東京のパノラマが眺められるほか、空と緑に囲まれた開放的な空間で寛ぐことができます。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く