「ぼくはそのころ旧制高校の生徒で、東京の近郊にあったその学校に登校の途中のことだった」と書き始められた一篇の回想記風の文章が、その「登校の途中」に起こったことがらをこう語りついでいる。 電車の席に腰かけてぼくははじめて『ボヴァリー夫人』を翻訳で読んでいた。ガチャリと佩剣(はいけん)の音がして顔を上げると、目の前にぼくたちの教練の教官のu大佐が立っている。お辞儀をして席を譲ろうとすると、大佐はそれを制して、その代わりぼくの手から本を取り上げ、表紙を一瞥(べつ)すると、「ふん」といって返してくれた。ぼくはかねがね睨(にら)まれているらしい大佐の前で、固くなって『ボヴァリー夫人』を読みつづけた。その日の教練の時間に大佐は開口一番、「この組のある生徒は今朝電車の中で、さわやかな秋晴れの朝だというのに『ボヴァリー夫人』のような淫らな本を読んでおった」といって、これを枕に一場の訓戒を垂れた。こうした
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く