気がついた。 自分が書きたいことを書いているんじゃなくて、自分が読みたいことを書いている。 書くのはたった1回だけど、読むのは何度でも読める。 こうして書くのは、書くためではなくて、読むためだ。今は読まなくても、やがて来る将来に読むためだ。自分の読むものをここに溜めている。
「ゆとり教育」って、思えば、時間的および頭のゆとりを作って、そのゆとりのできた時間を「ものを考える(思考力を育てる)」ことや、「学校ではできない体験をする(生活力を育てる)」ために使おう、という考えだった。はずだったように記憶するけど合ってるだろうか。ちと自信がない。 その思惑どおりにうまく進んでいれば、一定の学年までに覚え込む知識に関しては少なくなるかもしれないが、そのぶん思考力や生活力は増えるはずだった。 が、結局、そうはならなかった。覚える知識は減ったが、思考力は減ったか、あるいはせいぜいよくても、横ばいで増えていない。生活力については、今のその世代が生活力旺盛になったとはあまり思えない。 高校受験はまだしも、中学受験には、かなりの思考力が試されるらしい。 単純に基礎的なことを知っているだけでは足りず、その先、いかに基礎的知識と能力を使い回し、より複雑な問題を解きあかしていくのか、そ
小学3〜4年の頃だっただろうか。父から初めて、4冊を伝記を買ってもらった。 それ以前に、簡単な伝記風読み物の載った絵本のようなものは読んだことがあったが、1冊で1人を扱い、イラストも少ない本格的な子ども向け伝記を買ってもらったのはそれが初めてだった。 今調べてみると、ポプラ社の「子どもの伝記全集」のうちの4冊であったことがわかる。こんなことがネット上で簡単に調べられるようになったとは、いい時代になったものだ。 父が買ってくれたのは、「キュリー夫人」、「コロンブス」、「豊田佐吉」、そして「キリスト」であった。選んだのは父だ。 今からみると、このラインナップは興味深い。当時小学生であった私に何を読ませたかったのか、何を与えたかったのか、が、今になると見えてくる。親が自分の最初の子どもに初めて与える伝記は、子どもへのメッセージでもあった。もちろん、子どものほうはそんな難しいことは当時は皆目分から
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