タグ

元寇に関するmoritataのブックマーク (5)

  • モンゴル帝国から日本を救った北条時宗が「英雄」とは言い難いワケ

    ほんごう・かずと/1960年、東京都生まれ。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日中世政治史、古文書学。『大日史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日史』(朝日新書)、『乱と変の日史』(祥伝社新書)、『考える日史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日史』(ダイヤモンド社)など多数。 ニュース3面鏡 インターネットの登場以来、以前にもまして巷にはニュースがあふれ返っています。そうしたニュースや出来事の中から、DOL編集部が気になる出来事を厳選し、正面のみならず右から左から、価値あるニュース、楽しいニュースをお届けします。 バックナンバー一覧 鎌倉時代、2度にわたってモンゴルに攻め入られた日。そんな大国の侵攻から日を救った英雄とみられているのが、北条時宗だ。しかし、モンゴルが日に攻め入った経緯を

    モンゴル帝国から日本を救った北条時宗が「英雄」とは言い難いワケ
  • 【蒙古襲来】世界最強『モンゴル帝国』が攻めてきた! - ニホンシログ

    鎌倉時代に起こった2度にわたるモンゴル帝国による日侵攻(元寇)。 なぜ、モンゴルは2度も日を侵攻しようとしたのか? そして、『神風』が日を救ったという話の真実は? 日建国史上最大の危機と言われた『元寇』、日はどのようにモンゴル帝国軍に勝利したのでしょうか? めちゃくちゃ強かったモンゴル帝国 『フビライ・ハーン』に目をつけられた日 『南宋』攻略の一環として 第1ラウンド『文永の役』 日式の戦い方で大苦戦 日軍の押し返し 第1ラウンド終戦 第2ラウンド『弘安の役』 沿岸の防御力強化 執拗に日を狙うモンゴル帝国 大船団襲来 踏んだり蹴ったりの東路軍 神風 めちゃくちゃ強かったモンゴル帝国 当時のモンゴル帝国はいったいどのくらい強かったのか? まずは、支配面積をみてみましょう。 西はトルコから、東は朝鮮半島まで、南はミャンマーまで支配。 実に地球上の陸地の約25%を統治していたの

    【蒙古襲来】世界最強『モンゴル帝国』が攻めてきた! - ニホンシログ
    moritata
    moritata 2017/01/09
    歴史家と教科書の罪は重いなぁ… この内容実際とは全然違うし。文永の役では博多湾では遭難してない(元々そんな記録はない)上に最初から集団戦術で戦ってる。皮肉なことに「蒙古襲来絵詞」でちゃんと書かれてる。
  • 元寇はなぜおきたか(文永の役)

    「天に守られている大蒙古国の皇帝から日国王にこの手紙を送る.昔から国境が接している隣国同士は,たとえ小国であっても貿易や人の行きなど,互いに仲良くすることに努めてきた.まして,大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり,はるか遠方の国々も,代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている. 例えば私が皇帝になってからも,高麗(こうらい=朝鮮)が蒙古に降伏して家来の国となり,私と王は父子の関係のようになり,喜ばしいこととなった.高麗は私の東の領土である.しかし,日は昔から高麗と仲良くし,中国とも貿易していたにもかかわらず,一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく,国交をもとうとしないのはどういうわけか?日が我々のことを知らないとすると,困ったことなので,特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝えよう. これから日と大蒙古国とは,国と国の交わりをして仲良くしていこうではない

    moritata
    moritata 2017/01/08
    読んでみたけど、大昔の間違った説での解説だった…削除するか修正するなどして欲しい。
  • 勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル

    モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたってい止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。 今まで「元寇」はおおむね次のような経緯だったとされてきた。 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、

    勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル
    moritata
    moritata 2017/01/08
    朝日新聞の「近年」は数十年前の話なんだろうな。元寇の様な戦の話は歴史家だけでは評価出来ないのを証明した話。日本側が善戦して実力で阻止したのはとっくに知られた話。勉強不足も甚だしい 。http://amzn.to/2iQQ4tE
  • 【悲報】鎌倉武士団、モンゴルより鬼畜だった : 哲学ニュースnwk

    2015年11月05日18:00 【悲報】鎌倉武士団、モンゴルより鬼畜だった Tweet 1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2015/11/05(木) 08:01:09.83 ID:9V5u6vqf0.net 元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究) 1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた 2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた 3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた 4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた 5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が) 6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた 7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた 8(

    【悲報】鎌倉武士団、モンゴルより鬼畜だった : 哲学ニュースnwk
  • 1