2006年7月16日のブックマーク (8件)

  • 共産主義はなぜ破綻したのか?(2) : 依存症の独り言

    人気ブログランキングへ あなたの暖かい応援をお願いいたします。↑ 今日は約束どおり、「なぜ社会主義(共産主義)の思想から、中国や、それ以上に残酷な北朝鮮のような非人間的社会体制が生み出されたのか?」に言及する。 昨日のエントリーで書いた「ソ連的社会主義体制」の崩壊をお読みいただければ、理由の半分以上は既にお解りいただけると思う。 --------------------------------------------------------------------- 私は、昨日のエントリーで次のように書いた。 ①共産主義社会とは、社会主義社会がさらに発展した人類の理想社会。 ②搾取も抑圧も差別もない、真に自由で平等な社会。 ③人間が疎外から解放され、もっとも人間らしく生きることのできる社会。 ④「一人は万人のために、万人は一人のために生きる」社会。 ⑤「各人はその能力に応じて働き、必要に応

    共産主義はなぜ破綻したのか?(2) : 依存症の独り言
  • 楽韓Web - 韓国製液晶テレビ滅亡への道

    mozukudon
    mozukudon 2006/07/16
     笑える。
  • 第四十工房落書き置き場

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    第四十工房落書き置き場
  • 第四十工房落書き置き場

    日頃より楽天のサービスをご利用いただきましてありがとうございます。 サービスをご利用いただいておりますところ大変申し訳ございませんが、現在、緊急メンテナンスを行わせていただいております。 お客様には、緊急のメンテナンスにより、ご迷惑をおかけしており、誠に申し訳ございません。 メンテナンスが終了次第、サービスを復旧いたしますので、 今しばらくお待ちいただけますよう、お願い申し上げます。

  • 文化大革命 - Wikipedia

    文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年[3]から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、中国共産党中央委員会主席毛沢東主導による「文化改革運動」を装った劉少奇からの奪権運動、政治闘争。全称は無産階級文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命、繁体字: 無產階級文化大革命、プロレタリア文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)[3]。「造反有理」(謀反には道理がある)を叫ぶ紅衛兵に始まり、中国共産党指導層の相次ぐ失脚、毛沢東絶対化という一連の流れによって、中国社会は激しく荒れ乱れ、現代中国政治・社会に大きな禍根を残して挫折した[3]。 名目は「封建的文化、資主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だったが、実際は大躍進政策の失敗のために国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生

    文化大革命 - Wikipedia
    mozukudon
    mozukudon 2006/07/16
    [メモ]
  • ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(チベット・ハウス)

    平素より、チベットの厳しい現状についてご理解とご支援を賜り、心よりお礼申し上げます。 皆様のあたたかいご支援がチベット内外で暮らす私たちチベット人の原動力になっています。多くの方々のご協力により、チベットの厳しい現状を様々な形で報告させていただいております。 現在、在宅でチベット関連ニュース(英文)の和訳をしてくださる翻訳ボランティアを募集しています。 1週間に約1のペースです。最近、英文を日語訳してくださる方が不足しており、ご関心のある方を募っております。何とぞ、暖かなご支援とご協力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

    ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(チベット・ハウス)
    mozukudon
    mozukudon 2006/07/16
     チベット亡命政府のHP 中国のチベット侵攻については広めないといけないと思うね。TVとかじゃやらないし
  • 映画鑑賞記 - セブン・イヤーズ・イン・チベット

  • チベット - Wikipedia

    を「吐蕃」と称した。 チベットの一部地域を示す「西蔵」という呼称は、中国大陸では1725年ごろから中央チベットとその周辺だけをさす地域呼称として使用されており、現在も中華人民共和国政府はアムドやカムを含むチベット全域の総称としては使用していない。 清朝の雍正帝は1723-24年にグシ・ハン王朝(1642年 - 1724年)を征服、彼らがチベット各地の諸侯や直轄地に有していた支配権をすべて接収し、タンラ山脈とディチュ河を結ぶ線より南側に位置する地域は、ガンデンポタンの統治下に所属させ、この線より北側の地域は、青海地方を設けて西寧に駐在する西寧弁事大臣に管轄させたほか、残る各地の諸侯は、隣接する陝西(のち分離して甘粛)、四川、雲南などの「内地」の各省に分属させた。「西蔵」という地域呼称は、康煕時代から中国文献に登場しはじめていたが、これ以降、チベットのうちガンデンポタンの管轄下にある範囲が西蔵

    チベット - Wikipedia