布施辰治は「韓国併合」の1年後、「朝鮮の独立運動に敬意を表す」を書いた。 法廷では1919年の朝鮮人留学生による2.8独立宣言式で撒かれたビラが出版法違反だとして留学生らが逮捕・起訴された事件、義烈団事件、関東大震災の2日後に拘束され、天皇殺害を謀る大逆罪とされた朴烈、金子文子、朝鮮共産党事件、阪神教育闘争や朝鮮民主主義人民共和国の国旗掲揚事件、東京朝鮮中高等学校事件(GHQが禁止していた「新朝鮮」などの雑誌を作成していたとして同校生徒を検挙し、同校を家宅捜索したことに抗議した朝鮮人らが逮捕された)、台東朝鮮人会館接収事件(朝聯強制解散を理由とする建物接収に際し、抵抗した朝鮮人らが逮捕された)など朝鮮人に関わる大きな事件の数多くを弁護した。 法廷外においても関東大震災の時には、サイドカーに乗って震災直後の大混乱の中、東京中を回って、「自分の家に来たらなんか食べ物がある」と呼びかけ被害にあっ
「生きべくんば民衆とともに」 布施辰治。朝鮮人から「義烈弁護士」「われらの弁護士ポシ・ジンチ(布施辰治の朝鮮語読み)」「解放運動者」と呼ばれ厚く信頼された日本人弁護士だ。「生きべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために」を座右の銘として生きた。しかし、残念ながら、歳月の流れ、また冷戦的イデオロギーによる色眼鏡も邪魔をして、今日、彼について知る人はその業績に比してみた場合、決して多いとは言えない。 今回、在日朝鮮人人権協会の金東鶴事務局長が、布施辰治の孫にあたる日本評論社の大石進会長から祖父、布施辰治についての思い出や、考えについてインタビューする貴重な機会を得、同協会機関誌「人権と生活07年冬号」にその内容が掲載された。(編集部)−幼少時に抱いた祖父、布施辰治先生のイメージは? また思い出などについて。 大石 私が生まれた時、布施辰治は獄中なんですよ。私の名前が単純なのは布施辰治が
☆ 布施 辰治 (ふせ たつじ) ☆ 人民大衆の味方、正義の弁護士 1880(明治13)年〜1953(昭和28)年 大正・昭和期の弁護士、社会運動家。 1880(明治13)年11月13日宮城県蛇田村(現・宮城県石巻市蛇田字南久林)の農家に3女2男の5番目の子として生まれた。 18歳のときに「立身出世(高い官職や地位につき、有名になること)をもとめるのではなく、清貧(せいひん=富を求めず、正しいおこないをしていて貧しいこと)に甘んじて哲学を学ぶために」上京、1902(明治35)年に明治法律学校(現・明治大学)卒業後、司法官試補(現・検事)となり宇都宮地裁に赴任する。しかし、親子心中をはかって自首した母親を殺人未遂で起訴することに忍びず、また法律の社会的不備を痛感し、新聞に「桂冠(けいかん=月桂冠の略で、名誉や栄光、または勝利のしるし)の辞」を発表し、「虎狼(ころう=貪欲で残忍な人
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