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ブックマーク / ashizu.hatenablog.com (2)

  • 日常生活における小さなもの - metamorphosis

    前回は、「ゲームと実存」というテーマで、今日においてゲームをすることの意味を、実存という側面から問題にしていった。僕がゲームを問題にしたのは、そこでの実存の問題を場所の問題と結びつけたかったからである。僕は、以前から、小さなものに興味を持っているが、その小さなものを場所という観点から取り上げてみようというのが現在行なっている試みである。小さなものとは、つまるところ、無意味なものである。『無能の人』の石のように市場価値のほとんどないものである。それは趣味と呼んでいいかも知れないが、しかし、それは嗜癖に近い趣味、場合によってはフェティッシュになるような趣味である。 場所についてのこだわりということについて少し考えてみることにしよう。つまり、なぜ、この場所でなくてはならないのか、という問題である。こうした問いは、しばしば、地上げや再開発に抵抗する住民に対して投げ出される問いだと言えるが、果たして

    日常生活における小さなもの - metamorphosis
  • metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って

    前回は、アニメを見ることに関わる実存的な問題を少しだけ提起した。そこで問題になっていることは、生活のリズムを刻むこと、平板な世界にいかに起伏をもたらすか、ということである。これは、つまるところ、世界をいかに意味づけるか、ということである。あるいは、日常生活というものをいかにして再構成するか、ということである。 この日常生活の分節化の問題が、今日の非常に多くのサブカルチャー作品に見出されるということが、現在の僕の関心事である。何度も繰り返すことになるが、日常生活そのものを描くことはできないので、こうした作品において問題になっていることは、言ってみれば、日常生活における節目を発見することであるだろう。つまり、何かの終わりであると同時に何かの始まりでもあるような、そうした節目を様々なところに発見することが問題になっているのである。 現在は卒業式のシーズンであるが、卒業式というのもまた、ひとつの節

    metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って
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