と思うことがある。たまに。 たとえば漫画オタクなら作家の画力について、アニメオタクなら作画について語ることができるけど、ラノベオタクが挿絵について語ると単なるイラストレーターの話になってしまう。そこに「ラノベ読みならではの視点」みたいなのはあんまりない。いくら「ラノベはイラストが命」と言っても、イラストこそがメインである漫画とかと比べると、ラノベの挿絵は重要度が低い(誤解を招きそうな表現)んだろうな。「文章がダメだから途中で読むのやめた」はあっても、「イラストがダメだから途中で読むのやめた」なんてことは、たぶんないだろうし。 文章については、ラノベというジャンル自体が「文章の正しさ」をあまり気にしないということもあって、「てにをは」が明らかにおかしいというくらいでないと批判されないように思う。画力と違って文章力はパッと見では分かりにくいという理由もあるかも。 あと、ラノベに対する(外部から
■ 時かけとハルヒの広がりかたの違いから見えるもの ある日、打ち合わせに出かけたわたしは、神保町の路地裏にある喫茶店でひとりのオヤジを見かけました。年齢は50代くらい。チョイ悪風で、パンツの裾から覗く靴も洒落ています。オヤジは、喫茶店のマスターに親しげに話しかけました。 「おれ、昨日、『時をかける少女』って映画を見てきたんだけどさあ……」 わたしはコーヒーを吹き出しました。 『時をかける少女』と『涼宮ハルヒの憂鬱』というふたつの作品の広まりかたが、夏頃ネットで話題になりました。憶えている人も多いでしょう。両者はどちらもすぐれた作品で、なおかつ、どちらもネットの住人の口コミによってヒットしたと言われています。 わたしたちはネットに未来を感じているため、この2作品のヒットにおいて両者のいいとこどりをしてしまいがちです。が、時かけとハルヒのヒットという2つの現象には分けて考えねばならないことがあ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く