1945年、日本は連合国に降伏し、ポツダム宣言を無条件に受け入れました。 ポツダム宣言は、日本の周りの小さな島の所在は連合国によって決定されるべきであると規定されていました。 1951年9月に日本と連合国によって署名される予定だったサンフランシスコ平和条約の最終草案において、連合国は、独島を韓国に移すべき島のリストから除外することにより、日本の領土として残すべきであると決定しました 連合国によるこの決定を知って、ヨウ・チャンヤン韓国駐在米国大使は、平和条約の締結の2ヶ月前に独島をリストに追加すべきであると要求しました。 しかし、ディーン・ラスク、当時の米国の極東担当国務次官補は、後に「ラスク文書」と呼ばれる外交文書で韓国の要求を拒否しました。 しかし、韓国初代大統領の李承晩は連合国によるこの国際的決定を無視しました。 彼は国際的同意もなく李承晩ラインと呼ばれる国境線を敷き、1952年に独島