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  • 「無とはなんぞや」その4、道元禅師の生死観 (No.641 10/02/11) | ミネルバのフクロウ

    人間が悩み苦しむのは、煩悩(欲望)でがんじがらめになっているからだ。「俺が・・」「私が・・」という思いが物事を見る目を歪め、人を苦悩の道に投げ込んでしまう。そうした「私が」という気持ちを捨て去る道が只管打座、座禅であった。禅で身心脱落した無心な状態になれば、今まで見えなかった真理が見えてくる。川の音も山の木々も、当たり前に「有」(あ)り、当たり前に「無」かった、と分かってくるのである。だが、身心脱落して、無心になることは容易ではない。煩悩で曇った我々衆生の目にはそれが当たり前に見えてこないのである。 そうした煩悩に満ちた目で我々は自分の人生を見ている。人はこのなかで悩み、もがき苦しみつつ死んでいくのである。では、無心になった道元はそれをどう見ているのだろうか。「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)の別巻に「生死」という巻(写真右)がある。山版ではわずか2ページという短さで、しかもほとんど平仮

    「無とはなんぞや」その4、道元禅師の生死観 (No.641 10/02/11) | ミネルバのフクロウ
    nadia6159
    nadia6159 2011/06/15
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