2014年2月21日のブックマーク (4件)

  • 高柳儀八 - Wikipedia

    高柳 儀八(たかやなぎ のりはち[1]、または たかやなぎ ぎはち、1891年(明治24年)4月17日 - 1973年(昭和48年)12月29日)は、日の海軍軍人。戦艦「大和」第2代艦長。最終階級は海軍中将。 経歴[編集] 佐賀県出身。高柳米吉の息子として生れる。旧制佐賀中学卒を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、海軍兵学校(41期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1920年(大正9年)11月、海軍砲術学校高等科を卒業。戦艦「鹿島」分隊長、駆逐艦「海風」砲術長、砲術学校教官などを経て、1927年(昭和2年)11月、海軍大学校(甲種25期)を卒業した。 軽巡洋艦「名取」・海防艦「浅間」の各砲術長、呉海兵団、重巡洋艦「那智」砲術長、第1艦隊兼連合艦隊参謀、海軍省教育局員(第2課)などを歴任し、1936年(昭和11年)1

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  • 鮫島具重 - Wikipedia

    岩倉具経の四男として生まれ、海軍大将鮫島員規の養嗣子となる。太平洋戦争において司令長官職を歴任。ラバウルでともに終戦まで戦い抜いた同期生の草鹿任一・南東方面艦隊司令長官や、陸軍第8方面軍司令官の今村均と同様に人格者として知られていた。戦後の戦犯問題では部下の責任を引き受ける態度を示し、豪軍に感銘を与えたという[1]。 1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌月に海軍少尉に任官し、同月、養父の死去に伴い男爵を襲爵。1916年(大正5年)12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「吾」分隊長、「金剛」部隊長、砲術学校教官、「陸奥」副砲長、東伏見宮依仁親王付副官を経て、1923年(大正12年)10月、海軍大学校(甲種21期)を卒業した。 「由良」砲術長、イギリス駐在、高松宮宣仁親王付武官、「羽黒」副長、運送艦「青島」艦長、上海陸戦隊指揮官、第3艦隊参謀、「北上」艦長、「

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  • 永野修身 - Wikipedia

    海軍兵学校時代の写真 1880年(明治13年)6月15日、高知県で士族(上士)永野春吉の四男として生まれる。海南中学に入学、吉田数馬、田岡正樹(後の東亜同文書院教授)らの薫陶を受け卒業。若い頃は侠気に満ち、清水次郎長に弟子入りしようとした。1898年(明治31年)、海軍兵学校第28期に116名中2番の成績で入学する。永野は元々政治家か技術者を志しており、東京帝国大学に入学して法科か工科を修めたいと希望していたという。受験日程の関係から腕試しに海軍兵学校を受験したところ合格、周囲の説得もあり後に軍人を志すようになるが、その後も軍事学以外にも日頃から政治や経済、外交、科学など幅広く専門書籍を読み勉学を続けた。1900年(明治33年)12月13日、105人中次席の成績で卒業し[注釈 1]、少尉候補生となる。1902年(明治35年)1月18日、海軍少尉に任官。1903年(明治36年)9月26日、海

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  • 近藤信竹 - Wikipedia

    1886年9月25日、大阪府で近藤堅三の次男として生まれる[3]。天王寺中学を経て、海兵35期。入校時の席次は114番、2年次は6番、3,4年次は首席。同期に高須四郎、野村直邦らがいる。1907年11月20日、35期を首席で卒業、少尉候補生となる。1908年12月25日、海軍少尉に任官。 1923年12月1日、海軍中佐に昇進。1924年(大正13年)2月5日、東宮武官(侍従武官兼務)に任命され、翌日には摂政宮・皇太子(昭和天皇、当時23歳)と皇太子妃(香淳皇后)に謁見する[4]。侍従武官として、皇太子や西園寺八郎とゴルフをすることもあった[5][6]。 1926年(大正15年)12月1日、第一艦隊参謀兼務連合艦隊参謀に補職される[7]。1927年(昭和2年)8月下旬、連合艦隊(司令長官・加藤寛治大将)は島根県美保関町沖合で、第一艦隊と第二艦隊の夜間演習をおこなう[8]。この時、第一水雷戦隊

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