宮嵜 俊男[1](みやざき としお、1899年(明治32年)10月18日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は、日本の海軍軍人。米駐在時代に情報活動に従事し、米国官憲に摘発され国外追放処分を受ける。太平洋戦争中、連合艦隊先任参謀に擬せられるが、山本五十六の戦死により実現しなかった。最終階級は海軍大佐。 兵庫県出身。神戸一中を経て海軍兵学校48期を卒業。席次は171名中5番。同期生に神重徳、大石保、三和義勇らがいる。1921年(大正10年)6月、少尉任官。宮嵜は、水雷学校高等科学生を首席で修了した水雷専攻士官である。宮嵜は軽巡「長良」水雷長、第一水雷戦隊参謀、「薄雲」艦長等を務めた。 海軍大学校甲種30期に進むが、海大の教育につき「感ずるところあり」と称し、サポタージュする。図上演習でアメリカ海軍艦隊指揮官役を務めて日本艦隊を撃破し、教官には不評であった。しかし小沢治三郎は宮嵜の戦法に好