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小説とfreezingに関するnamgenのブックマーク (4)

  • 坂のある非風景 ふたつの巨星

    ◇「文士の生魑魅(ぶんしのいきすだま)」車谷長吉 新潮社 昭和四十年代の末、私はまだ二十代だった。その頃、東京新宿の文壇バーで文壇雀たちに、「いずれ中上健次・車谷長吉時代が来るだろう。」と言われた一時期があった。 ■その時、その文壇バーで、車谷と中上は二度出会っている。しかし時代は中上健次を選択した。「岬」で芥川賞をとると、中上は次々に誰にも書けない文学世界を切り拓いていった。その頃、車谷は姫路で旅館の下足番をしていた。 ■車谷が決定的に敗北を認めたという中上健次の作品は、昭和50年に発表された「穢土」という短編小説で、これはのちのち講談社文庫の『化粧』にはいった。実をいうとぼくの学生時代、新刊だった「化粧」を読み、この「穢土」についてしきりに語る後輩がいた。ちょっと読み返してみよう。 ■(絶望的な気分に陥った…) ■車谷はこの小説を読んで、中上健次が踏み込んだ地獄が瞬時にわかったのである

  • 坂のある非風景 路地に咲き、路地に散る

    隆明を介して出会う吉隆明 JAP on the blog(09/06) その亡霊、その模倣 miya blog(08/22) 中上健次は語る 南無の日記(08/11) ブランショを月明かりにして歩く 愛と苦悩の日記(01/21) 作品は過大評価を求めつづける 青藍山研鑽通信(12/01) 十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない M’s Library(11/09) 十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない 僕等は人生における幾つかの事柄において祈ることしかできない(11/07) 停滞すべき現在さえ 斜向かいの巣箱(10/22) 東京旅行記 #4 azul sangriento(09/23) 東京旅行記 #1 南無の日記(09/21)

  • 坂のある非風景 停滞すべき現在さえ

    いつか見た風景をいつか吹いた風が通り過ぎている。とにかく季節はいらない。私たちを受動態にするからだ。といっても能動的な私たちが好きというわけじゃない。たとえば、日ごろどちらかといって閑散としている私のtwitterが、閑散が好きなのである、週に一度、雨後のタケノコのように殷賑をきわめる時があって驚かされる。いったいどこから湧いてきたのだ、落ち着けよ、と言ってみたくなる。「落ち着けよと言ってみたくなる」のが好きなのである。 誰も何も選んでいないのに前に進んでいる。そのとき私たちにできるのは意志によって停滞を選ぶことだけだった。それなのに過去も未来も否定されていて、停滞すべき現在さえ奪われていた。これは根正午『太平洋イルカクルーズ』(抒情文芸-第132号)を読んでふと思ったことである。 とは別れてしまった。でも子供との別れがないのは、子供が別れを持たないからだった。なぜって子供にはまだ「親

  • 坂のある非風景 哀しいやさしさは哀しすぎる

    ここには何も起こらない。あらゆることが起こっていて、それらすべてが物語を語っている、それなのに何も起こらない。 繰り返しの中に些細な出来事が混じって、それも繰り返しの中に落ちてゆくといったありふれた諦観が語られているのではなく、これは、生の深くにゆっくりと流れる、ある流れの物語である。 の顔から抜け落ちた感情があると、そう思った理由は、私こそが感情の重さに耐えかねて、それをどこかに置き去りにしてきたのだという事実を、誰よりも自分自身が、忘れておきたかったからかもしれなかった。 もっともよくないところを引用してしまった。たぶんにおける感情の脱落(と感じられた何か)は、私の感情の脱落の反射にすぎないのだろう。重力と呼ぶしかない何かの圧力によって、音も影も感情も私から抜け落ち、地表へ、地中へと這いつくばり押しつぶされてゆく……。しかしそれらは、表題であり、中心的なモチーフかもしれないがこの作

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