◇「文士の生魑魅(ぶんしのいきすだま)」車谷長吉 新潮社 昭和四十年代の末、私はまだ二十代だった。その頃、東京新宿の文壇バーで文壇雀たちに、「いずれ中上健次・車谷長吉時代が来るだろう。」と言われた一時期があった。 ■その時、その文壇バーで、車谷と中上は二度出会っている。しかし時代は中上健次を選択した。「岬」で芥川賞をとると、中上は次々に誰にも書けない文学世界を切り拓いていった。その頃、車谷は姫路で旅館の下足番をしていた。 ■車谷が決定的に敗北を認めたという中上健次の作品は、昭和50年に発表された「穢土」という短編小説で、これはのちのち講談社文庫の『化粧』にはいった。実をいうとぼくの学生時代、新刊だった「化粧」を読み、この「穢土」についてしきりに語る後輩がいた。ちょっと読み返してみよう。 ■(絶望的な気分に陥った…) ■車谷はこの小説を読んで、中上健次が踏み込んだ地獄が瞬時にわかったのである