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  • 記憶の底割れ - 記憶の彼方へ

    掘り起こせなかった甘い歌を いくつ抱え込んだところで生涯は閉じられるか 山博道『恋唄』(ワニ・プロダクション、1985年)より いま、こうしてぼくの少年期に出会うとき たまらないさびしさがあふれてくる 山博道『短かった少年の日の夏−−遠い風景』(思潮社、1998年)より 家族にまつわる記憶には踏み固められた地面のような底があると感じていた。山博道の詩集を読みながら、そのような底が割れ始めるのを感じないわけにはいかなかった。三十八歳で子宮癌で死んだ母、九十歳をすぎて施設で眠るように死んだ祖父母、七十四歳で肺癌で死んだ父をめぐる記憶が揺らぎはじめた。あちこちに小さな暗い穴が開いて、その底の見えない深みから無性に懐かしいと同時にたまらなくさびしい子どもの唄が聞こえて来るような気がした。

    記憶の底割れ - 記憶の彼方へ
  • ジャズにおける即興演奏に関するビル・エヴァンスの解説試訳 - 記憶の彼方へ

    ジャズにおける即興演奏 ビル・エヴァンス 水墨画の絵師は天然になることを強いられる。絵師は雁皮紙に特殊な筆と墨汁で描く。不自然ともいえる途切れがちの筆運びは描線を破壊し、雁皮紙を突き破ることもある。削除も変更も許されない。絵師は思案の邪魔が入らない直接的なやり方で、着想を手によって表現することができるようになるまで、特別な稽古に励まなければならない。 その成果としての水墨画は、西欧の絵画に見られる複雑な構図と肌理を欠いているが、よく見れば、どんな説明も追いつかない何かをうまく捉えている。 直接的な行為は最も意味深長な思想であるというこの確信は、思うに、ジャズすなわち即興演奏家の非常に厳しく類のない訓練の進化を促してきた。 集団即興演奏にはさらなる困難がつきまとう。首尾一貫した思考を共有する技術的困難はさておき、ここには、共通の成果を目指す全員の共感を引き出さねばならないという、非常に人間的

    ジャズにおける即興演奏に関するビル・エヴァンスの解説試訳 - 記憶の彼方へ
  • タルコフスキーのポラロイド - 記憶の彼方へ

    Instant Light: Tarkovsky Polaroids 晩年(1979年から1984年まで)のタルコフスキー(Андрей Арсеньевич Тарковский, 1932–1986)はロシアとイタリアで、好きな場所、家族(飼い犬を含む)、友人をポラロイドカメラで撮っていた。この『瞬間の光』には、フェルメールの絵画に準える評者もいる、彩度を抑えた色の中で光沢と陰翳を見事に捉えた60枚の写真(前半のロシア編には27枚、後半のイタリア編には33枚)が収められている。書の前書きでタルコフスキーの友人の一人、イタリアの詩人トニーノ・グエッラ(Antonio "Tonino" Guerra, 1920–2012)は、タルコフスキーのポラロイド写真を「人生の儚さを感じている人の目の周りを飛び交う蝶の群れのような映像」と詩的に評している。イタリア編にはトニーノその人とはっきり分かる

    タルコフスキーのポラロイド - 記憶の彼方へ
  • 羈旅 - 記憶の彼方へ

    死をゆく旅―詩集 「羈旅」は古くは「羇旅」と書き、「きりょ」と読む。旅といえば、馬と道連れの旅であった時代を彷彿とさせる言葉だが、『万葉集』以来、「羇旅発思」は和歌・俳句の部立(ぶだて)、つまり分類の一つにもなっている。『万葉集』では巻11と巻12に見られる。岩波文庫版『万葉集(上巻)」の「万葉集概説」のなかで、佐々木信綱は「羇旅発思」について次のように説明している。 羇旅発思 羇旅は家を離れて客たること、両字ともに、たびの意である。羇旅の字面は人麻呂の作その他にも見えるが、巻12のは、旅中で家やを思ふ歌で、単に旅中の自然を詠じたものではない。 佐々木信綱編『万葉集(上巻)』(岩波文庫)27頁 しかし、山博道の詩集『死をゆく旅』(花神社、1992年)を読みながら、特に最後の「羈旅」に至って思ったことは、「家」が帰るべき場所だとしても、所詮、仮の宿にすぎず、人は死ぬまで地上の客として、い

    羈旅 - 記憶の彼方へ
  • フクジュソウもユキワリソウもまだ眠っている - 記憶の彼方へ

    仕事の愉しみ 百年前の三月、ボーデン湖(Bodensee)畔で春を待つヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse, 1877–1962)は次のように語った。 庭をもつ人にとって、今はいろいろと春の仕事のことを考えなくてはならない時期である。そこで私はからっぽの花壇のあいだの細道を思案にふけりながら歩いて行く。道の北側の縁にまだ黄色っぽい雪がほんの少し残り、全然春の気配も見えない。けれど草原では、小川の岸や、暖かい急斜面の葡萄畑の縁に、早くもさまざまなみどりの生命が芽を出している。初めて咲いた黄色い花も、もう控えめながら陽気な活力にあふれて草の中から顔を出し、ぱっちりと見開いた子どもの目で、春への期待にあふれた静かな世界を見つめている。が、庭ではユキワリソウのほかはまだ何もかも眠っている。この地方では春とはいえ、ほとんど何も生えていない。それで裸の苗床は、手入れされ、種が蒔かれるのを辛抱

    フクジュソウもユキワリソウもまだ眠っている - 記憶の彼方へ
  • bye-byeさようなら - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    声のいい人だった。よくとおる口跡のいいバリトンで、啖呵売をすればさぞかし似合ったろう。浪花節や河内音頭を論じたりもしていたから香具師にも通じていたにちがいない。大道芸をタイトルにしたもある。そもそもかれの文章じたいが講釈師や香具師の話芸に通じる一種のアジテーションだった。なによりその歯切れのいい文章が好きだった。 一度だけ会ったことがある。もう三十年ほども昔、書評紙の編集者だった頃のことだ。たしか横浜の駅ビルの喫茶店だった。何の原稿を頼んだのか、もう覚えていない。原稿を受け取って少し話をし、ちょうどできたばかりだと手にしていた見――『一番電車まで』だったと思う――をくれた。気風のいい人だった。ジャズから歌謡曲へと論を広げ、『山口百恵は菩薩である』で多くの読者を得る一、二年前のことだ。 初めて読んだは『ジャズより他に神はなし』(71)だったろうか。翌年、『あらゆる犯罪は革命的である』が

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    namgen 2013/04/01
    平岡正明、澁澤龍彦
  • しかしジャスミンは咲いている - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    ほとんど要約を許さぬ文章というものがある。桶谷秀昭の「含羞の文学」*1という短いエッセイ――というよりもこれは随想というに相応しいが――もそのひとつで、これについて触れようとすればほぼ全文を書き写すしかないが、そうもゆかないので覚束ないけれども(そして原文の味わいを損なうけれども)敢て要約してみよう。 桶谷はかつて短い中野重治論を書いて中野自身から「抗議の葉書を貰つた」ことがあるという。「老いて往年の志気をなほ失はぬ中野重治」と書いた「老いて」が中野の意に染まなかったのだろう、「老年だの晩年だのを動かしがたい実体として認めることを拒否する」のが若い頃から「鋭敏な年齢感覚」をもつ中野の人生に向かう姿勢である。にもかかわらず、中野の「ちりがみ交換」という短篇小説は、「さういふ激しい主観を含めて、作者が晩年にあることをまぎれもなく示してゐた」と桶谷は書き、その小説の一節を引用する。孫引きすると、

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    namgen 2013/04/01
    中野重治
  • 続・孤島へ持って行く本――『郷愁の詩人 田中冬二』 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    孤島へ持参したのなかから、もう一冊について書いてみよう。和田利夫『郷愁の詩人 田中冬二』(筑摩書房・1991)。 1 わたしは田中冬二の詩のよい読者ではない。なのになぜA5判・450頁もある浩瀚な評伝を読んでみる気になったのか。それは大正から昭和初期にかけての詩人たちの交流が書につぶさに語られているからである。師である堀口大學、冬二を見出した長谷川巳之吉、生涯の親友であった井上多喜三郎、そして高祖保、岩佐東一郎、城左門、八幡城太郎等々といった詩人俳人たちとの交流について書かれたをいまこの時期に読もうと思ったのは、高祖保の詩集『雪』を偶々古書展で入手し、それについて短文を草したことが機縁となっている。おもしろいものだな、と思う。貧弱なわが蔵書のおそらく九割は未読のままだが、こういうことがあるからなかなか処分できないでいる。 さて、田中冬二は生れてはじめて書いた詩を詩誌「詩聖」に投稿し、

    続・孤島へ持って行く本――『郷愁の詩人 田中冬二』 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
    namgen
    namgen 2013/04/01
    田中冬二
  • 夢に深く埋もれ - 記憶の彼方へ

    若松孝二 ---闘いつづけた鬼才 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)

    夢に深く埋もれ - 記憶の彼方へ
  • 火力過剰 - 不良熟女のjazzy days

    やっと復活した。 昨日せっかくスミカに アロマ・マッサージしてもらい、 激コリの首肩背中その他、 ほぐほぐほかほかだったのに。 っつうか。 ほぐほぐほかほか状態で ガソリン注入するから 回りすぎんだよ間抜け。 というワケで。 犯人その1はコレ(右画像)だす。 ってか。 その2を投入すっから 頭ガンガンになるんだよボケ。 しっかし。 外メシってえと 中華しかってねーな最近。 いい加減「火」の エネルギーとりすぎだろ。 そんなに充填しなくっても んもう充分すぎるほど いっつも無駄にカッカしてんだろ。 ええまあ。 どの店でもバカの一つ覚え。 ピータンって不思議だわ。 何で飽きないんじゃ。 きっと。 あの硫黄臭に呪縛力があるに相違ない。 見た目はメノウ。 ベジタリ屋の皆さんは あの麗しさ・うまさを知らずに この世を去るのね可哀相。 やっぱ海鮮系は塩味だあね。 昨年暮れは業者の手違いで 年賀状がわ

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    namgen 2012/12/20
  • plginrt-project.com

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    namgen 2012/12/16
  • もみじ撮り歩き~その弐 - 昭和ひとケタ樺太生まれ

    出来るだけ多くの人に会って、日ごろの会話を多くするようにと、言われたこともあって日常の買物だけでなく、日中の外出を増やそうと心がけておりますが、天候などで思うようにはゆきません。 どうも近頃の天候は、強い風の日がようやく快復したと思えば、今度は霧が立ちこめて、せっかくの出鼻を挫いてしまいます。 今は紅葉の季節ですが、その紅葉撮りも天候に左右されがちですから、やはり買物で出掛けた折に見かけた紅葉や、時間に合わせて一寸立ち寄った近場の公園などに限られてしまいます。 そんな中で、今年は天候の所為か恵まれていると思います。何故かと言うと昨年の今時期は、の葬儀でブログを休んでおりましたから、紅葉どころではありませんでした。 それ以前は、まだ元気だったを乗せて走り回ったもので、近くは市内の公園等、または湿原内から鶴居街道まで出掛けたものです。 しかし今は一人身で自由気ままな筈ですが、何故か遠出はお

    もみじ撮り歩き~その弐 - 昭和ひとケタ樺太生まれ
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    namgen 2012/11/30
  • ク ラ リ ッ サ

    ク ラ リ ッ サ サミュエル・リチャードソン作 渡 辺  洋 訳 ・表紙(2015年5月5日) ・はしがき(2015年5月7日) ・主要登場人物(2015年5月6日) ・第1巻(2015年5月7日) ・第2巻(2015年5月9日) ・第3巻(2015年5月8日) ・第4巻(2015年5月8日) ・第5巻(2015年5月8日) ・第6巻(2015年5月8日) ・第7巻(2015年5月9日) ・第8巻(2015年5月9日) ・『知恵に寄する頌歌』 楽譜、演奏(2005年5月6日) ・所感集目次(2012年6月10日) ・訳者あとがき(2015年5月9日) 2015年5月更新 Clarissa by Samuel Richardson translated to Japanese by Hiroshi Watanabe, Professor Emeritus, Hokkaido Univers

  • 記憶の彼方へ021:古いネガ - 記憶の彼方へ

    若い母と幼い弟 *** *** プレスバン(Press Van、鈴木光学工業、1953年) 昨夜、半世紀ちかく前に父が撮った二のネガを見ていた。細かい傷がたくさんついているが、思ったほど経年劣化していない。フィルムはFUJI NEOPAN SS 6x6判とSAKURA COLOR NEGATIVE100 35mm。モノクロのネオパンSSには幼稚園児、1963年頃の<私>が、さくらカラーには小学2年生、1965年頃の<私>が写っている。6x6判と35mm兼用のプレスバンで撮ったのだろう。デジタル化して保存するために、一部スキャンを試みたが、途中で止めた。劣化を素直に受け入れて時々ネガを眺めるだけでいい。劣化が進み像が消えるのを見届けるのも悪くない。なぜかそう思い直した。 関連エントリー Press Van(2012年05月10日) 記憶の彼方へ001:私の知らない祖父母(2008年02月2

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  • 『戊辰、維新はわれらが祖父の時代:東京日日新聞社会部編『戊辰物語』(岩波文庫)』

    1928=昭和3年に『東京日日新聞』で連載されたもの。維新前後を生きてきた人物たちの回想を編集した一編である。あわせて西南戦争前後の回顧録である「五十年前」(1926=大正15年連載)と、主として新撰組についての証言を集めた「維新前後」も収められている。 乱歩だったか、昭和前半期くらいは明治時代のなどいくらでもあったと書いているが、書を読んで気付かされるのは、同様に1868年における革命を経験をした人間がまだまだ存在したという事実である。明治、大正、昭和と区切ってしまうと各時代がずいぶんと違ったもののように思えるが、年数だけを見ればたかだか60年。ちょうどいま、われわれの曽祖父、祖父が敗戦前後を回想するようなものだろう。 敗戦前後については、それなりに市井のひとびとの証言が色々と出回っているのだが、さすがに明治維新前後となるとなかなかそういったものも見当たらない。正確にいえば口語体の東

    『戊辰、維新はわれらが祖父の時代:東京日日新聞社会部編『戊辰物語』(岩波文庫)』
  • 彼岸ブルース - 不良熟女のjazzy days

    通院・通院・講座の3日間で あっと言う間に週末終了。 メール返信がすっかり滞っており、 まっこと申し訳ござんせん。 m(_ _)m 明日以降、順番に お返事いたしますんで 何卒御了承のほどお願い申します。 秋分の日も過ぎ、 ひと雨ごとに秋の気配。 嗚呼。 夏が終わっちまう。 彼岸参りもままならぬまま、 今日なんざ早くも熱い紅茶が うめー気温じゃんかよ。 体内にフツフツたぎる 南の血のせいか、 寒いのが嫌いだ冬が苦手だ。 北には住めん。 これまでに旅した国内の最北限は 会津だ文句あっか。 しっかし。 寒い土地ってえのは い物&酒が美味だあね。 蕎麦しかり。 海産物しかり。 画像は横須賀の某店にて 今秋初めての牡蠣フライ。

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    namgen 2012/09/24
  • パンク詩人アルチュール - 不良熟女のjazzy days

    ≪もう秋かよ! まっ。 オレたちが 神聖なる光とやらを 探し求めてるんなら、 永遠の太陽なんかに 追いすがるこたねーわ。≫ by アルチュール・ランボー 暦が1枚めくられて はや長月でござんす。 9月29日をもって 日中国交正常化より丸40年。 角栄よ。 なぜあの時、 台湾を選んでおかなんだ。 アンタの国辱娘を 某政党の代表に推す向きが あるようだが、 全くもって噴飯モノである。 毛沢東も、 日留学経験を持つ周恩来も 去って久しい。 9月18日には例年にもまして 激烈な反日行動が起きよう。 慨嘆。 嘆息。 暗澹。 ランボーに話を戻す。 これまでいろんな翻訳を 読んできたけれど。 意外(邪道)な発見アリ。 稀代のパンク詩人は 英語で読むとガゼン、 ロケンロー!するんである。 とりわけ。 ワシが遭遇したWyatt Mason訳は 初版が2002年と新しく、 また訳者30代初めの仕事につき、

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    namgen 2012/09/02
    参考になります。ありがとう御座います。
  • マチャアキの最後っぺ - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    平岡正明の『人之初(ひとのはじめ)』というを書店で見つけた。「未発表だった《自伝》が遂に陽の目を見る」と腰巻にある。これは、読まないわけにいかないな。 買って、とりあえず鈴木一誌さんの「解題」に目をとおす。ほほう、鈴木さんも平岡正明の愛読者だったんだな。鈴木さんは書いている。 「平岡や大藪(春彦)を読むと、からだの底からフツフツと『やってやろうじゃないの』との気力が湧いてくるのだった。いささか暗いが重たさのある情念とでも言おうか。」 オールナイトで健さんのやくざ映画を見て、小屋から朝のまぶしい陽射しのなかに出たときの高揚感だね。平岡の文章は、読む者ミンナがハイになる。ハイミンナールなんちゃって。 「情念だって? だからゼンキョートー世代はうぜえんだよ」という声が聞こえてきそうだが、上等だよ、後続世代は先行世代を蹴飛ばすのが正しい倫理というものだ。AKB48の麻里子さまもゆってるじゃん、「

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    namgen 2012/08/26
    平岡正明は武勇のヒト。。。
  • 植苗、社台、室蘭 - 記憶の彼方へ

    植苗駅(JR千歳線)、苫小牧市 苫小牧市植苗 植苗 うえなえ ウトナイト沼(通称ウトナイ湖)の北一帯の土地の名。美々川(びびがわ)の中流に東から入っているウェン・ナイ(悪い・川)から出た名らしい。ウェンナイは道内至る処にあった川名であるが、何で悪かったかは殆ど分からなくなっている。徳川時代に、そこに炭焼小屋があり、勇払から千歳方面への陸路の人の休み場になっていたという。そんな処からこの名が付近一帯の地名になったのであろう。 山田秀三『北海道の地名』北海道新聞社、1984年、379頁 地名の由来はよく分からないことが多い。これもウェンナイが植苗になったらしい理由はよく分からないという説明であるが、なぜか「炭焼小屋」が印象に残る。 室蘭街道(国道36号)、白老郡白老町社台 社台 しゃだい 白老町内の地名、川名。永田地名解は「シャ・タイ・ペッ。前・林・川。蝦夷紀行にシヤタイペツの流あり、夷村あり

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  • 「黒白(こくびゃく)」で片づける思考方法を破棄してくれた池波正太郎先生への感謝 - ujikenorio’s blog

    - 中年男の梅吉は少年のような矮軀(わいく)であったが、きちんとした堅気の風体で、連れの三十がらみの男と茶店から出て来て、参道を遠ざかって行った。そのとき、 「では、明後日。またここでね、いいかえ」 という梅吉の声が、はっきりとおふじの耳へ入った。 連れの男は縞の紺木綿の半てんのようなものを着こみ、手に小さな風呂敷包みを持っていたという。 「それからはもう、しばらくは、そこをうごけもせず、おそばもべずにじいっとしていましたけれど……こわいのをがまんして、やっと……」 「そうか。そりゃあ、よく見ておいてくれたな」 「小野様さま、御役にたちましょうか?」 「たつとも。いや、たてずにはおかぬ」 「ま、うれしい……」 梅吉がいう明後日というのは明日のことであるから、小野十蔵はすぐさま役所へもどり、御頭の長谷川平蔵の指示をあおぐと、 「おぬしにまかせよう」 この御頭は、にっこりとして、 「おりゃ、

    「黒白(こくびゃく)」で片づける思考方法を破棄してくれた池波正太郎先生への感謝 - ujikenorio’s blog
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    namgen 2012/05/05