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nikojuと親鸞に関するnamgenのブックマーク (2)

  • 関心のない私を見捨てることなく、如来は呼びかけ続けておられる。 - 歎異抄聴聞記−師の口伝の真信に異なるを歎く

    人前で話す機会がある私は、何も話せないと思うことが多々あります。私なんか何も話すことがない、そうよく思うのです。今日もお講で何を話せばいいのか悶々としているのですが、お昼頃NHKをみておりました。強迫性障害の特集をしていました。 強迫神経症(強迫性障害)とは、簡単にいうと「わかっちゃいるけどやめられない症候群」です。自分でも不合理だと思いながら何回も繰り返すので、人にとっては大変つらい病気です。 よくみられるものは、トイレに入った後何回も手を洗う、ドアのカギをかけたかどうか、ガス栓をしめたかどうか何回も確認するというものです。来これらの行為は安全を確保するために誰でも行いますが、それが何回も何十回も確認しないと気がすまない状態になると社会的に支障をきたすことになり、何らかの治療が必要となります。 参考http://www.fuanclinic.com/byouki/vol_34c.ht

    関心のない私を見捨てることなく、如来は呼びかけ続けておられる。 - 歎異抄聴聞記−師の口伝の真信に異なるを歎く
  • 無碍の一道 - 歎異抄聴聞記−師の口伝の真信に異なるを歎く

    念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なり 歎異抄第七条 考えてみますと、私たちの人生には、どれほど多くのおびえがあり、また不安があることでしょうか。また、どんなに多くのものに縛られ、当てにならぬものを当てにしていることでしょうか。幸福を祈って神々を拝んだり、不幸につきあたってはなにかのたたりかと怖れます。そして自分に罪悪を感じたときにはその報いを恐れ、善いことをすればそれを誇ります。そのすべての底に深い怯えと不安があることを私たちは自覚すべきです。『親鸞に出会う言葉』東願寺 寺川俊昭 法事で、人間の存在が欲にまみれている、我さえよければいい私であると話したら首をかしげられたことがある。その方は、大津波の時最後までマイクで知らせ続けたような人に

    無碍の一道 - 歎異抄聴聞記−師の口伝の真信に異なるを歎く
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