これは評論であり断片であり感情であり食材であり構築物だ。 SFとはいったい何なのか?誰のものか?なんてことは語れないけど、私がSF読者であることだけは間違いない。つまり私が話したいのはジャンルの区分けというSFをめぐるいつもの話ではなく、内部にあるものが外部に切り分けられるという構造──クィア批評ではおなじみの──についての話だ。 非常に憂鬱になってこの文章を叩いている。ことの発端はTwitterなのだけど、そのことは正直どうでもいい。ただ単に私が感じてきた憂鬱が噴出した、っていうだけだから。 憂鬱というのは、SFが今までもこれからも思想とともにあるものであり、またその中にはフェミニズムが入っていた、ということ、このことがどうにも忘れられやすいというその状況への憂鬱だ。 いまさら、メアリー・シェリーっていう人がいて、母親はフェミニストで、『フランケンシュタイン』を書いてね、なんて丁寧に説明