第03回:「風景としての仲間」 生殖行為のような生々しい現実は、公共圏においては隠される必要があり、それは情交に関わる表現を、どこかふわふわとしたイメージで覆っていく一方、不安定化した現代における「安定」のよすがとしての生殖-家族というテーマが求められるようにもなっている。その二重性が、ケータイ小説や最近のラブソングの、ある種奇妙な感覚を生み出しているのではないか、というのが前回までに僕が提示した仮説でした。 ところで、広義の公共圏で行われるコミュニケーションには、政治的議論や企業活動のようないわゆる「公的」な場面で行われるもの以外にも、多様な形態があり得ます。性風俗はその中でももっとも限界的な領域だと思いますが、その他にも「飲み屋」や「クラブ」などで広がる談義・社交も、公的なものと私的なものの中間的な性格を有しています。 公共圏にこうした「第三空間」としての盛り場を見いだしたのは社会学者