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JAPANと百人一首に関するnibushibuのブックマーク (2)

  • 阿倍仲麻呂(安倍仲麿) 千人万首

    生年は大宝元年(701)とも。中務大輔船守の子。渡唐後は仲満と称し、のち朝衡(ちょうこう)と改めた。晁衡とも書く。百人一首などでは安倍仲麿と書かれる。 霊亀三年(717)、第八次遣唐使の留学生として入唐する。唐の太学に学び、科挙に合格、唐朝の諸官を歴任した。同行した吉備真備・玄昉らは天平六年末、帰国の途につくが、仲麻呂は帰朝を許されず、その後も唐に留まった。天平勝宝五年(753)、遣唐大使藤原清河らと延光寺で鑑真に面会して渡日を依頼。その際自らも帰国を願って許されたが、日へ向かった船は途中暴風に遭って難破、安南(ベトナム)に漂着し、再び唐に戻ることを余儀なくされた。のち、玄宗などに仕えて正三品の高位にまで昇る。李白・王維ら文人と交流し、その詩は清乾隆帝勅撰の『全唐詩』などに収められている。宝亀元年(770)、在唐五十四年、七十三歳にして唐の都長安に骨を埋めた(贈従二品)。 勅撰入集は古今

  • 阿倍仲麻呂 - Wikipedia

    阿倍仲麻呂(『前賢故実』より) 阿倍 仲麻呂[1](あべ の なかまろ、文武天皇2年〈698年〉[2] - 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男[3]。弟に阿倍帯麻呂がいる。 唐名を「朝衡[4]/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格または推挙で登用され[5]唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日への帰国を果たせずに唐で客死した。 なお小倉百人一首では安倍仲麿と表記される。 生涯[編集] 阿倍仲麻呂(百人一首より) 文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次[6]遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄昉、井真成がいた[7]。 唐の太学で学び科挙に合格または推挙で登用され、

    阿倍仲麻呂 - Wikipedia
    nibushibu
    nibushibu 2011/04/14
    天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
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