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2013年10月13日のブックマーク (8件)

  • 経済思想が変わるとき 2 - 経済を良くするって、どうすれば

    ケインズ経済学は、不況下における財政の大切さを説いて、経済運営の考え方に革命を起こした。他方で、その最大の欠陥は、なぜ、それが有効に働くかの理由が判然としないことである。確かに、流動性の罠など、金融緩和が十分に機能しない局面では、財政を使うしかないというのは分かる。しかし、それだけでは、赤字が不安で財政を使いたくないとなると、弱々しいのを承知で金融緩和に頼ったり、効果不明の構造改革に託したりになってしまう。財政を使う決定的な理由に欠けるのだ。 ……… 現在の経済学に異を唱えるために、「常に」不合理に行動することを論証する必要があると言うと、とても無理だと思うかもしれないが、大したことではない。常に不合理さはあっても、普段は無視できるほど小さいとした上で、ある条件に従い、無数の主体が持つ小さな不合理が大きくなるとともに、それらの不合理には相互作用があって、強め合うフィードバックが働くというモ

    経済思想が変わるとき 2 - 経済を良くするって、どうすれば
    nizimeta
    nizimeta 2013/10/13
    “金融緩和と投資収益率を高める政策を取れば需要を抜いても平気という思想に基づくと解さざるを得ない。もし現実がそれとは異なり需要リスクで、設備投資が控えられるものだとすると、結果は惨憺たるものとなろう”
  • 吉田俊雄 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年8月) 旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)より海軍兵学校へ進む。病気のため留年し1931年(昭和6年)11月、123人中41番で卒業した(59期)。 1933年(昭和8年)4月少尉任官、翌年11月中尉、1937年(昭和12年)4月海軍大学校選科学生[注釈 1]。この間大尉に進級している。第28駆逐隊附、重巡洋艦「妙高」分隊長を経て、軍令部出仕(3班8課)となり、日蘭会商の随員を務めた。帰国後再び軍令部出仕となり、臨時戦史部に所属。第二次世界大戦中は主に軍令部3部8課に勤務。1942年(昭和17年)11月少佐。1944年(昭和19年)2月、軍令部勤務のまま永野修身元帥の副官となり[注釈 2]、また米内光政、嶋田繁太郎の

  • 奥宮正武 - Wikipedia

    奥宮 正武(おくみや まさたけ、1909年(明治42年)7月27日 - 2007年(平成19年)2月22日)は、日の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は海軍中佐、空将。高知県出身。航空主兵論の急先鋒であり、戦艦無用論を主張した。 経歴[編集] 1909年(明治42年)7月27日、高知県に父・奥宮正治と母・虎の三男として生まれる。生家は土佐藩藩校の教授であった奥宮慥斎の家になる。母は土佐の旧家である入交家の出身。市岡中学卒を経て、1926年(大正15年)11月、海軍兵学校58期入校。1930年(昭和5年)11月、海軍兵学校卒業。1932年(昭和7年)4月、海軍少尉任官。 1933年(昭和8年)11月、海軍練習航空隊第24期飛行学生を卒業、大村海軍航空隊付(延長教育を受ける)。また、後に関衛らと急降下爆撃の教育を受けた。同月海軍中尉に進級。1934年(昭和9年)11月、空母「龍驤」

    奥宮正武 - Wikipedia
  • 伊藤正徳 (軍事評論家) - Wikipedia

    伊藤 正徳(いとう まさのり、1889年(明治22年)10月18日 - 1962年(昭和37年)4月21日)は、日のジャーナリスト、作家、軍事評論家。 海軍部内に精通し、大海軍記者と称された。 時事新報社取締役社説部長、同盟通信社参与、共同通信社初代理事長、時事新報社長、産業経済新聞主幹、日新聞協会初代理事長等を歴任した[1]。 略歴[編集] 茨城県水戸市生まれ。1913年(大正2年)慶應義塾理財科を卒業し、時事新報社に入社[1]。経済部や政治部、海軍省担当記者として活躍。 大正から昭和にかけて時事新報の海軍記者として黒潮会に属して活動した。 1921年(大正10年)に行われたワシントン軍縮会議では現地まで派遣され、後藤武男とともに「日英同盟廃棄と四国協定成立」の国際的スクープを報じて名声を上げた[1]。 その後、編集局長、取締役社説部長を務め、1933年(昭和8年)に退社した[1]。

  • 佐藤和正 - Wikipedia

    佐藤 和正(さとう かずまさ、1932年 - 1991年10月1日)は、日のノンフィクション作家。 略歴[編集] 北海道深川市生まれ。1939年(昭和14年)10月に家族と共に満州国新京特別市(現在の長春市)に移住。当地にて終戦を迎える。1955年(昭和30年)日大学芸術学部を卒業、河出書房入社。 1962年(昭和37年)より文筆活動を開始。主にノンフィクションを執筆し、特に太平洋戦争戦史に関する著述が多い。1991年(平成3年)10月1日、道癌により死去[1]。 エピソード[編集] ノンフィクションを主に執筆し、特に太平洋戦争関連の書籍においては現在も貴重な資料として活用されることが多い。これは「レイテ沖の日米決戦」や「艦長たちの太平洋戦争」等、著作でその当事者たちの証言を集めてまわり、それにより従来の公刊戦史と異なった様々な証言を引き出すことに成功しているためである。例えば、「艦

  • 幻の産業政策 機振法 | 日本経済新聞出版社

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