2013年05月12日 ケニアの「マウマウ」闘争 イギリスによるケニア植民地経営の二つの柱は、インド洋沿岸の都市モンバサから現在のウガンダまでを貫く鉄道の建設と、中央高地に連なる冷涼な農耕適地への入植であった。多くの労働力が必要であり、植民地政府は、現地のアフリカ人住民の管理を容易にするために、それまでは比較的柔軟で自在に行われてきた民族の属性の変更や移住を禁止し、「キクユ人」「ルオ人」といった形で民族の名称や境界線を固定していった。アフリカ人住民に対する課税、労働力の強制徴用、農耕適地からの強制退去と「原住民居留地」の指定など、統治は苛烈をきわめた。早くも1906年には、中央高地の農耕適地を白人にのみ譲渡することが法制化され、「ホワイト・ハイランド」が誕生した。 ホワイト・ハイランド建設によって土地を追われたアフリカ人住民の大半は、「キクユ人」とされた人々であった。キクユ人の若手運動家を
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く