高山飛騨守の子として生まれた[4]。右近の生年は日本側の史料に所見がなく、外国側史料でも一致しないが、天文21年(1552年)から天文22年(1553年)ごろと推定される[1]。幼名は彦五郎[1][注 2]。 高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父・飛騨守は松永久秀の旗下で、大和国宇陀郡の沢城を預かっていた[7][8]。 永禄6年(1563年)7月、父が洗礼を受けた後、右近をはじめとする家族や家臣など約150人も一斉に受洗した[9][10]。右近は、公正という意味のジュスト(Justo)という霊名を授けられた[9][4][注 3]。 永禄7年(1564年)の三好長慶没後、三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津国においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を