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2012年4月29日のブックマーク (8件)

  • 利休七哲 - Wikipedia

    呼称としては「利休七人衆」というのが古い[1]。「七人衆」として、前田利長(加賀の肥前)、蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、古田織部、牧村兵部、高山南坊(右近)、芝山監物の七人をあげているのが初見で、これは千宗旦(利休の孫)が話したもの。ついで宗旦の子、江岑宗左(逢源斎、表千家四世)が寛文3年(1663年)夏に執筆した『江岑夏書』(こうしんげがき)に、「利休弟子衆七人衆」としてこの七人のうち前田利長を外し、瀬田掃部に入替えられている。 その後、様々な茶書などで構成が微妙に変わり[2]、寛政期(1789 - 1801)に版行された『古今茶人系譜』以後になると、織田有楽(長益)、荒木道薫(村重)あるいは千道安(利休の長男)などがあげられるようになり、変動する。また、有馬豊氏や金森長近を加えるなど諸説あるが、いずれも後世呼称されたもので、当時からそのように呼ばれていたわけではない。一貫して変わらないの

  • 織田長益 - Wikipedia

    織田信長の弟の一人であるが、信長とは年齢が13歳離れており、前半生の事歴はあまりわかっていない。母は信秀の側室のうちの一人と推測されるも不詳。 天正2年(1574年)、尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修する。以降、信長の長男・織田信忠の旗下にあったと思われ、甲州征伐などに従軍している。 天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄の後に続いている。 天正10年(1582年)の左義長での順は、信忠・信雄・長益・信包となっている。甲州征伐では木曽口から鳥居峠を攻め、木曽勢に助力して鳥居峠を攻略。降伏した深志城の受け取り役を務める。また、森長可・団忠正と共に上野国に出兵し、小幡氏を降伏させている。 同年の能寺の変の際は、信忠とともに二条新御所にあったが、長益自身は御所を脱出し、近江国安土を経て岐阜へ逃れたとされる。 変後は甥の信雄に仕え、検地奉行などを務める。小牧

    織田長益 - Wikipedia
  • 荒木村重 - Wikipedia

    天文4年(1535年)、荒木義村(信濃守)の子として生まれた[6][7]。母は中川佐渡守[注 2]の妹(『荒木略記』)[8]。 幼名は十二郎[9](十次郎[7])。通称は、弥介[9]、または弥助(彌助)[7]。 はじめ池田勝正(長正の次の当主)の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り、その一族衆となる。しかし、三好三人衆の調略に乗り、池田知正(長正の長男)と共に三好氏に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ、池田氏を掌握する。 元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて、三好氏から織田家に移ることを許された。 天正元年(1573年)、茨木城主となり、同年に信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。 一方、義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って、村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田氏を

    荒木村重 - Wikipedia
  • 前田利長 - Wikipedia

    永禄5年(1562年)1月12日、織田信長の家臣・前田利家の長男として尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)に生まれる[3][4]。幼名は犬千代、初名は利勝[3][4]。 初めは安土城で織田信長に仕えた。 天正9年(1581年)、父・利家が能登国を与えられた役の後、父の旧領越前国府中の一部を与えられ、知行3万3千石、越前府中城に住んだ[5][6]。信長の娘・永姫を室に迎える。 天正10年(1582年)、能寺の変の際は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田(現在の滋賀県大津市東部)で聞き、当時7歳の永姫を前田の領・尾張国荒子へ逃がし匿わせ、自身は織田信雄の軍に加わったとも、蒲生賢秀と合流して日野城に立て籠もったともいわれる。 信長死後は父・利家と共に柴田勝家に与する。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにも参加し、戦後は父と共に越前府中城へ撤退する。父が羽柴秀吉に恭順し、秀吉と共に勝家の

    前田利長 - Wikipedia
  • 蒲生氏郷 - Wikipedia

    蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという[4][5]。 ただし、蒲生氏などの近江関係の系図には沢田源内や椿井政隆による偽書・偽文書の影響を受けているものもあって同時代史料との比較検討を必要とする、という見解もあり、氏郷の祖先で確実に動向が追えるのは15世紀初めの蒲生秀兼以降とされる[6]。 近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれる[7]。幼名は鶴千代と名付けられた。 永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した[8]。鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の眼は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという(『蒲生氏郷記』)[8]。 鶴千代は岐阜の瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し

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  • 細川忠興 - Wikipedia

    細川九曜 細川 忠興(ほそかわ ただおき) / 長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。 佐々木氏の支流の大原氏流細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘の玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府15代将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父の幽斎と同じく、教養人・茶人の細川三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。 永禄6年(1563年)11月13日、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として京都にて誕生。母は沼田光兼の女の麝香(のちの光寿院)[1]。『寛政重修

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  • 前田利家 - Wikipedia

    富士大権現天満天神宮(荒子城跡)にある前田利家誕生碑(名古屋市中川区荒子) 天文7年(1539年)12月25日、前田利春の四男として尾張国愛智郡荒子で生まれる[1]。幼名は犬千代[2]。荒子前田家は利仁流藤原氏の一族とも菅原氏の一族ともいわれるが、確かなものではない。当時の領地は2,000貫だった(利家記)。 生年に関しては、これまでは『松雲公御考記』などの前田家側の記録から天文7年12月(1539年1月)説が有力だったが、近年では、秀吉が没した時に利家が「耳塞ぎ」を行ったとする伝えをもとに秀吉と同年とする天文5年(1536年)を生年とする説[3]や、これを訂正した天文6年(1537年)を生年とする説[4] が提示されている。 はじめ前田氏は、織田家筆頭家老・林秀貞の与力だった(『信長公記』・『加賀藩史稿』)。天文20年(1551年)1月、織田信長に仕える[5]。同年、元服して孫四郎利家

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  • 古田重然 - Wikipedia

    織部作と伝わる南宗寺庭園(国の名勝)古田 重然(ふるた しげなり[1]、ふるた しげてる[2])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人、芸術家。古田 織部(ふるた おりべ)の通称で知られる。南山城・東大和1万石の大名。官位は従五位下・織部助。 豊臣秀吉・徳川家康の茶頭、徳川秀忠の茶の湯指南役。茶道織部流の祖。江戸幕府(柳営)の御茶吟味役。柳営茶道の祖。利休七哲のひとりで、千利休の後継者として茶の湯を大成し、茶器・会席具製作・建築・作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行をもたらした。また、武将としても大坂夏の陣で徳川方につき武功を挙げたが、豊臣側と内通しているとの疑いをかけられ、自刃した。 子供に、長子・重行(九郎八、豊臣秀頼家臣)、嗣子・重広、重尚(前田利常家臣)、小三郎(池田利隆家臣)、重久(左近、徳川秀忠家臣)がいる。 一般的には茶人・古田織部として知られる。

    古田重然 - Wikipedia