呼称としては「利休七人衆」というのが古い[1]。「七人衆」として、前田利長(加賀の肥前)、蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、古田織部、牧村兵部、高山南坊(右近)、芝山監物の七人をあげているのが初見で、これは千宗旦(利休の孫)が話したもの。ついで宗旦の子、江岑宗左(逢源斎、表千家四世)が寛文3年(1663年)夏に執筆した『江岑夏書』(こうしんげがき)に、「利休弟子衆七人衆」としてこの七人のうち前田利長を外し、瀬田掃部に入替えられている。 その後、様々な茶書などで構成が微妙に変わり[2]、寛政期(1789 - 1801)に版行された『古今茶人系譜』以後になると、織田有楽(長益)、荒木道薫(村重)あるいは千道安(利休の長男)などがあげられるようになり、変動する。また、有馬豊氏や金森長近を加えるなど諸説あるが、いずれも後世呼称されたもので、当時からそのように呼ばれていたわけではない。一貫して変わらないの