土佐藩士時代の後藤 安政5年(1858年)、東洋の推挙によって幡多郡奉行となる。万延元年(1860年)9月、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行を仰せ付けられる。文久元年(1861年)に御近習目付となるが、翌2年(1862年)に東洋が暗殺されると任を解かれた。文久3年(1863年)に勉学のため江戸に出て、開成所で大鳥圭介に英語を学び、会津藩士・高橋金兵衛に航海術を学んだ。元治元年(1864年)に藩政に復帰した。前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て大監察や参政に就き、公武合体派の急先鋒として活躍した。 慶応元年(1865年)閏5月11日、武市瑞山を獄に断じ、次いで慶応2年(1866年)、藩命を奉じて薩摩、長崎に出張、さらに上海を視察して海外貿易を研究した。坂本龍馬と深く交わるようになったのはこの頃である。 慶応3年(1867年)、土佐藩は将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。土