企業資本主義 - アングロサクソン型 自由市場 - レッセフェール 重商主義 - 混合経済 ノルディック型 - 規制資本主義 - ライン川型 社会的市場経済 - 国家資本主義 - 福祉資本主義(英語版) - 厚生資本主義
経済学的著作を著し、初期重商主義の最後の人物といわれている。サービスという無形のものの輸出が有価な取引であると考えた最初の人々のうちの一人であり、資本主義を擁護する意見をきわめて早い時期に積極的に述べた人物でもある。 当初地中海交易に従事していたが、その後ロンドンに移住、巨万の富を築いた。東インド会社の役員であり、1622年には常設の通商委員会の委員にも選出された。マンが東インド会社役員を務めていた時代のイングランドは銀が払底しており、東インド会社を通じて大量の銀が流出しているという非難が高まっていた。 マンの1621年の著作『イングランドから東インド諸島への交易についての論述』A Discourse of Trade from England unto the East Indiesは多くの部分を割いて、東インド会社の活動を擁護している。とはいえマンの著作の中でもっとも有名なのは『外国貿
トーマス・グレシャムの肖像画 サー・トーマス・グレシャム(Sir Thomas Gresham, 1519年 - 1579年11月21日)は、イギリスの財政家、貿易商。 ロンドンで生まれ、ケンブリッジ大学卒業後、商人である叔父の仕事を手伝うようになった。商才に長けており、晩年はイギリスで指折りの富豪になった。1551年、エドワード6世によって王室金融代理人に任命され、王室の海外負債管理の任務を託された。そして、アントウェルペンの取引所において金融操作手腕を発揮し、この負債の大部分を清算した。1559年にエリザベス1世からナイトの称号を与えられた。 王室金融代理人として海外に在職中、グレシャムはイギリスの通貨価値が他国の通貨価値に比べて低いために職務遂行が困難になるという事態に直面した。その原因は、通貨の改鋳で品質を落としたことにあると考え、エリザベス1世にイギリスの通貨の品質を元に戻すよう
イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ、英: East India Company(EIC))はアジア貿易を目的に設立されたイギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行及びインドの商業資本から貸付を受けながら17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。 香辛料貿易を主業務としたが次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行うインドの植民地統治機関へと変貌していった。セポイの乱後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡、1858年に解散した。 厳密には「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。 初期には東インド(インドネシア)の香辛
イングランド東部・ハンティンドンシャー(英語版)のピューリタンでありジェントリ階級の地主の家庭に生まれる。高祖母キャサリンの兄(または弟)にヘンリー8世の元で「行政革命」を実施した政治家トマス・クロムウェルを持つ名家であった。 ケンブリッジ大学で学び、強い回心の経験を経た結果、生涯ピューリタンを貫いた[2]。1628年に庶民院議員となるも、翌1629年の議会解散後、また故郷に帰って治安判事となり、1631年に土地を売ってセント・アイヴス(英語版)に移り牧場を経営したが、1638年にイーリーに移った。 クロムウェルの妻エリザベス 1620年に結婚した。 ロバート・ウォーカーによる肖像画(1649年) クロムウェルは1640年の短期議会及び長期議会にはケンブリッジ選挙区(英語版)から選出された。長期議会では議会派に属して、国王の専制に断固として対峙する論陣を張るジョン・ピムの下で星室庁の廃止を
田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主(相良藩田沼家初代)。第9代将軍徳川家重と第10代家治の治世下で側用人と老中を兼任して幕政を主導し、この期間の通称である「田沼時代」に名前を残す。 享保4年7月27日(1719年9月11日)、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は龍助。意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ[1]。 意行は息子を授かるために七面大明神
ジョージ・ソロス(英: George Soros、1930年8月12日[1] - )は、ハンガリーブダペスト生まれのハンガリー系ユダヤ人の投資家、トレーダー。ウォーレン・バフェット、ジム・ロジャーズとともに世界三大投資家としてよく知られる[2]。 天才投資家として知られ「イングランド銀行を潰した男」(The Man Who Broke the Bank of England) の異名を取る。 ソロス・ファンド・マネジメント(英語版) (Soros Fund Management) 会長、オープン・ソサエティ財団 (Open Society Foundations; 旧称: Open Society Institute) 創設者、彼の生まれ故郷でもあるブダペストにある中央ヨーロッパ大学 (CEU) 共同創設者、Project Syndicate 出資者、シンクタンク Institute fo
ジョージ・バークリー(George Berkeley、1685年3月12日 - 1753年1月14日)は、アイルランドの哲学者、聖職者である。主著は『人知原理論』。バークレー、バークリとも。 1685年3月12日 - キルケニーに生まれる。父ウィリアムは軍人。 1696年 - キルケニー大学入学。 1707年 - ダブリンのトリニティ・カレッジで修士号取得。フェローとして大学に残る。 1709年 - 『視覚新論』刊行。 1710年 - 『人知原理論』刊行。 1713年 - 『ハイラスとフィロナスの対話』刊行。 1721年 - トリニティ・カレッジで神学博士号取得。 1728-32年 - 結婚直後、アメリカ新大陸に神学校を作るべくロードアイランドのミドルタウンに移住するが資金が充分集まらず帰国。 1734年 - アイルランド国教会の主教に叙任される。 1753年1月14日 - 逝去。 「存在
ジョン・ロック(英語: John Locke FRS、1632年8月29日 - 1704年10月28日)は、イギリスの哲学者。哲学者としては、イギリス経験論の父と呼ばれ、主著『人間悟性論』(『人間知性論』)において経験論的認識論を体系化した。また、「自由主義の父」とも呼ばれ[2][3][4]、政治哲学者としての側面も非常に有名である。『統治二論(統治論二篇)』などにおける彼の政治思想は名誉革命を理論的に正当化するものとなり、その中で示された社会契約や抵抗権についての考えはアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。 概要[編集] ロックの著作の大部分は1687年から1693年の間に刊行されているが、明晰と精密、率直と的確がその特徴とされており、哲学においては、イギリス経験論の父であるだけでなく、政治学、法学においても、自然権論、社会契約の形成に、経済学においても、古典派経済学の
イマヌエル・カント(Immanuel Kant ドイツ語: [ɪˈmaːnu̯eːl ˈkant, -nu̯ɛl -]、当て字は「韓圖」[1]、1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。 『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。 イマヌエル・カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人の第四子として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごしそこで没した。両親はルター派の敬虔主義を信仰していた。1732年、敬虔派宿泊施設であるフリードリヒ校に通学し始める。当校ではラテン語教育が重視されたほか、哲学は正規授業としてあり、ヴォルフ派の哲学が教えられていた。174
マニ教を批判したアウグスティヌスの書簡。 アウグスティヌス(ステンドグラス、作:L. C. ティファニー) ラテラノ大聖堂に描かれたアウグスティヌス アウグスティヌスの墓 アウグスティヌス ボッティチェリによる1480年ごろの作品。 聖アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語: Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日[26])は、ローマ帝国(西ローマ帝国)時代のカトリック教会の司教であり、神学者、哲学者、説教者。ラテン教父の一人。 テオドシウス1世がキリスト教を国教として公認した時期に活動した。正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派における聖人であり、聖アウグスティヌスとも呼ばれる。日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれ
ソクラテス(ソークラテース、英語: Socrates[2]、古代ギリシア語: Σωκράτης Sōkrátēs ギリシア語発音: [sɔːkrátɛːs]、紀元前470年頃 – 紀元前399年[3][4])は、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者である[5][6]。西洋哲学の基礎を築いた人物の1人として、特に、西洋道徳哲学(倫理学)の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人[5][6]として認識されている[7][8][9]。謎めいた人物であり、ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため、弟子の主に彼の死後に執筆を行った古代の作者たち、特に彼の弟子のプラトンとクセノフォンの著作を通して知られている。 同年代の他の出典としては、アンティステネス、アリスティッポス、スフェトスのアエシネス(英語版)の著作がある。劇作家のアリストファネスは、ソクラテスの存命中にソクラテスに言及した演劇を執筆
ライプニッツは哲学、数学、科学など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微分記号、積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。 1646年、ライプニッツはライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツの子としてライプツィヒに生まれた。父は6歳の時に病没した[7]。1653年にはライプツィヒのニコライ学院に入学した。1661年にはニコライ学院を卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、数学や哲学を学んだ。1663年6月には、哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出し、4か月間イエナ大学へと移って数学や法学、史学を学んだ。10月にはライプツィヒ大学
ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー(Julien Offray de La Mettrie, 1709年12月19日-1751年11月11日)は、フランスの哲学者、医師。啓蒙期フランスの代表的な唯物論者である。 ブルターニュ沿岸のサン・マロに生まれた。生家は富裕な絹商人であり、家業を継がされるはずが利発なところからコレージュ・ド・クーサンスに入学させた。まもなくカーンのヤンセン派の学校で修辞学の課程を学び、1725年コレージュ・ダルクールで哲学年級の課程を修めている。同郷人の医師ユノー(Hunauld)の成功に刺激されて神学の道を捨てて医学を学ぶために1733年にライデン大学に赴き、ブールハーフェの弟子となる。1734年からサン・マロで医師開業の登録を受けながら、ライデン大学でなおもブールハーヴェの講義を聴きに行っている。1735年にブールハーフェの
サー・アイザック・ニュートン(英: Sir Isaac Newton、ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日[注 1])はイングランドの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者である。 主な研究業績としては、現在「ニュートン力学」とも称される古典力学や微積分法の創始があげられる。物質にはたらく力として万有引力の考え方を提唱し、これは天文学を含む古典力学において長く中核的な役割を果たすことになった。現在の国際単位系 (SI)における力の計量単位であるニュートン(英: newton[注 2]、記号: N)は彼の名に因む。また、光学の発展にも貢献した。アリストテレス以来の古代の自然観から長らく脱却できずにいた自然科学分野において、実験事実を正確に示す定式化に成功し、人類史における科学のひとつの転換点となった。 科学以外の分野では、造幣局長等に任じられ、1717年にニュ
ラテン語名はレナトゥス・カルテシウス (Renatus Cartesius) である。デカルト座標系(仏: système de coordonnées cartésiennes ; 英: Cartesian coordinate system)、デカルト積(デカルトせき、英: Cartesian product)のようにデカルトの名がついたものにカルテジアン(Cartesian)という表現が用いられる。デカルト主義者もカルテジアン(仏: Cartésien ; 英: Cartesian)と呼ばれる。 考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上で最も有名な命題の一つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲
デモクリトス(デーモクリトス、希: Δημόκριτος、羅: Democritus、紀元前460年頃-紀元前370年頃)は、古代ギリシアの哲学者。 ソクラテスよりも後に生まれた人物だが、慣例でソクラテス以前の哲学者に含まれる。 ホセ・デ・リベーラ『デモクリトス』プラド美術館、マドリード トラキア地方のアブデラ(Abdera)の人。レウキッポスを師として原子論を大成した。アナクサゴラスの弟子でもあり、ペルシアの僧侶やエジプトの神官に学び、エチオピアやインドにも旅行したと伝えられる。財産を使いはたして故郷の兄弟に扶養されたが、その著作の公開朗読により100タレントの贈与を受け、国葬されたという。哲学のほか数学・天文学・音楽・詩学・倫理学・生物学などに通じ、その博識のために「知恵(Sophia)」と呼ばれた。またおそらくはその快活な気性のために、「笑う人(Gelasinos)」とも称された。
勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家[1]。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる[2]。江戸本所(現在の東京都墨田区)出身。 幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦(よしくに)。明治維新後は安芳(やすよし)と改名。これは幕末に武家官位である「安房守(あわのかみ)」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟は号で、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものだが、「海舟」という号は本来誰のものであったかは分からないという。氏族としては物部氏を称し、氏姓+諱の組み合わせで物部義邦[3]、物部安芳[4
幼時の名字は杉。幼名は寅之助。吉田家に養子入り、大次郎に改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。 安政元年11月20日に「二十一回猛子説」で、松陰はこう記している。 文政13年8月4日(1830年9月20日)、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を修めることとなった
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日〈1828年10月17日〉- 明治38年〈1905年〉1月31日)は、日本の政治家[1]。侍講兼侍講局総裁、参与兼制度事務局判事、参議兼大学御用掛、内務大臣(第4代)、枢密院副議長(第2代)、外務卿(第3代)、外務事務総裁、清国特命全権大使、宮中顧問官、興亜会会長、東邦協会会頭、愛国公党発起人等を歴任。位階勲等は正二位勲一等伯爵。 初名は二郎(じろう)、龍種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。 文政11年(1828年)佐賀城南堀に、佐賀藩士・枝吉南濠の次男として生まれる。兄は枝吉神陽。藩校・弘道館教諭を経て、尊王攘夷運動に奔走し兄と共に「義祭同盟」に参加。32歳で副島家の養子となる。明治維新後に参与・制度事務局判事となり、福岡孝弟と共に「政体書」を起草。参議兼大学御用掛を経て外務卿となり、
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。 東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議、佐賀征韓党首を歴任。 立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。また、司法制度・学制・警察制度の推進と共に「四民平等」を説き浸透させた。 天保5年(1834年)、佐賀藩士・江藤家の第21代として生まれ、嘉永2年(1849年)藩校・弘道館に入学。文久2年(1862年)に脱藩上京して尊攘勢力に接近する
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日[5]、4月17日[6]〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 - 大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督、迅衝隊総督兼大隊司令)、武士(土佐藩士)、東征大総督東山道参謀。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲として参与、参議、内務大臣(第10代・第13代)を歴任。 幕末に薩摩藩士・西郷隆盛と共に「薩土密約」締結を主導。戊辰戦争では東征大総督東山道参謀として指揮を執り、明治維新後に参与となる。征韓論政変で下野後、自由民権運動の指導者として東アジアで初となる帝国議会の樹立に向けて活動し、「国会を創った男」として知られる[7]。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある[7][8]。1898年(明治31年)には大隈重信とともに組閣の大命を受け、日本初の政党内閣となる隈板内閣を組織した[9][10
西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体:西鄕 隆󠄁盛󠄁、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人[1]。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。西郷隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。 本項で、年月日は明治5年12月2日までは旧暦(太陰太陽暦)である天保暦、明治6年1月1日以後は新暦(太陽暦)であるグレゴリオ暦を用い、和暦を先に、その後ろの()内にグレゴ
2009年4月10日、アメリカ合衆国海軍厚木航空施設司令官エリック・ガードナー(左)と 2013年5月2日、イギリス外務・英連邦大臣ウィリアム・ヘイグ(前列左から1人目)、衆議院議員塩崎恭久(前列左から2人目)、衆議院議員前原誠司(前列右から2人目)、日本駐箚英国特命全権大使ティモシー・ヒッチンズ(後列左)らとともに 松下政経塾を卒塾した1992年、日本新党の結党に参加。日本新党を結党した細川護熙や、元ニュースキャスターの小池百合子の初代秘書を務めた後[6]、1993年の第40回衆議院議員総選挙に旧神奈川1区から日本新党公認で立候補し、同区でトップ当選した。翌1994年、日本新党解党により新進党結党に参加。1995年神奈川県議会議員選挙に自身の秘書の26歳の池田元英を新進党新人として川崎市宮前区で擁立し法定得票を大幅に上回る16274票得たが次点で繰り上げ当選ならなかった。1996年、小選
家庭教師や都市ガスの点検員など、様々な仕事の経験を経て[8]、1987年(昭和62年)に千葉県議会議員選挙に千葉県内一の激戦区である船橋市から立候補した。選挙資金はカンパによる500万円、運動員は20代のボランティア約50人だったが、「金権千葉の政治風土を変えよう」「路地裏の政治」と毎日朝夕、駅前で訴え、下馬評を覆し当選した[9]。千葉県議は2期務めた。 1992年(平成4年)に松下政経塾の評議員の1人だった元熊本県知事の細川護煕の下で、小池百合子・前原誠司・山田宏・樽床伸二・中田宏らとともに、日本新党の結党に参加。翌1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙に旧千葉1区から立候補して、選挙区内で最も多くの票を得て初当選した。この総選挙では日本新党ほか新生党、新党さきがけが党勢を拡大して自由民主党を過半数割れに追い込み、8党派による連立政権が誕生するが、細川内閣・羽田内閣はともに短命
原口 一博(はらぐち かずひろ、1959年〈昭和34年〉7月2日 - ) は、日本の政治家[1]。立憲民主党所属の衆議院議員(9期)、立憲民主党佐賀県連代表[2]。 佐賀県議会議員(2期)を経て[3]、1996年に衆議院議員に初当選、2009年9月から翌年9月まで総務大臣(第12・13代)を務めた[4]。内閣府特命担当大臣(地域主権推進)、衆議院総務委員長、民進党副代表、同常任幹事会議長、旧国民民主党代表代行、同国会対策委員長、衆議院決算行政監視委員長などを歴任。 2009年5月15日、有楽町センタービル前での街頭演説にて 1987年、佐賀県議会議員選挙に立候補して当選する[1]。県議時代は自由民主党に所属して河本派幹部の山下徳夫の系列であった。自民党時代は宏池会(現岸田派)に所属していた[5]。 1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補した佐賀県全県区選出の大
高市 早苗(髙市 早苗[3]、たかいち さなえ、1961年〈昭和36年〉3月7日[1] - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(10期)。 経済安全保障担当大臣、内閣府特命担当大臣 (クールジャパン戦略、知的財産戦略、科学技術政策、宇宙政策、経済安全保障)(第2次岸田第1次改造内閣・第2次岸田第2次改造内閣)、内閣府特命担当大臣(クールジャパン戦略)(第2次岸田第2次改造内閣)、総務大臣(第18・19・23代)、内閣府特命担当大臣(マイナンバー制度担当)(第3次安倍第2次改造内閣・第4次安倍第2次改造内閣)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、科学技術政策、少子化・男女共同参画、食品安全、イノベーション担当)(第1次安倍内閣)、 経済産業副大臣(第1次小泉第1次改造内閣・福田康夫改造内閣・麻生内閣)、通商産業政務次官(小渕内閣・小渕第1次改造内閣)、衆議院議院運営委員長、同文
宇龍港で捕縛される前原一誠(月岡芳年画) 前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本の武士(長州藩士)。諱は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動の志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。 位階は贈従四位(大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。 天保5年(1834年)3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。 天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。 安政6年(1859年)に松陰が処刑された後は
品川弥二郎 品川弥次郎像(東京都千代田区九段南九段坂公園) 品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体:品川 彌二郞、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家[1]。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。 和装の品川 天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情
山縣 有朋(やまがた ありとも、旧字体:山縣 有朋󠄁、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家[1]。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔[2]。変名として萩原鹿之助の名も用いた[3]。1871年以降に有朋の諱を称した[3]。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪[4]。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ[5]、学問を修めて松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事。高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦した。明治維新後の1869年
伊藤博文(いとう ひろぶみ、旧字体:伊藤󠄁 博󠄁文󠄁、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日)は、明治時代の日本の政治家[1]。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。 大久保利通らの路線を受け継いで初代内閣総理大臣に就任し、近代立憲主義社会の基礎を築いた。 4度にわたって内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)を務め、一次内閣時には大日本帝国憲法起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治の道を開いた[1]。その他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任した[1][2]。 今太閤とも称されたように、百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引した、日本及びアジアの近代史を代表する人物の一人
久坂 玄瑞(くさか げんずい、1840年(天保11年5月) - 1864年8月20日(元治元年7月19日))は、幕末の長州藩士。幼名秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典は贈正四位(1891年)。 天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)[1]。幼少の頃から城下の私塾であった吉松塾で四書の素読を受けた(この塾には1歳年長の高杉晋作も通っていた)[2]。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄
高杉晋作生誕地 長門国萩城下菊屋横丁(現在の山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)とミチ(道子・大西将曹の娘)の長男として生まれる。3人の妹がいたが、男子は晋作のみで跡取りとして大切に育てられた。 10歳のころに疱瘡を患う。祖父母ら家族の献身的な介抱で一命を取り留めるが、あばたが残った事から「あずき餅」と呼ばれた。漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をするが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は1
武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、1827年11月4日(文政10年9月15日)- 1880年(明治13年)1月28日)は、日本の武士(伊予大洲藩士)、科学者、教育者、陸軍軍人。函館時代までは斐三郎、明治政府時代からは成章(しげあきら)の名を使った。竹塘(ちくとう)と号す。 緒方洪庵や佐久間象山らから洋学などを学び、箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設した。明治7年(1874年)3月、陸軍大佐[1]。 陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校長(初代)。 文政10年(1827年)、伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)にて誕生。先祖は甲斐武田氏の出で、大洲藩加藤氏に仕えたが、名をはばかって江戸時代は竹田姓を名乗っていたこともある。家紋は四つ目菱(甲斐武田の本家は四つ菱)である。藩祖加藤光泰が甲斐を領した際に召し抱えられたものと考
1823年(文政6年)、 佐賀藩士下村三郎左衛門(充贇)の5男として佐賀(肥前国佐賀郡早津江村 現・佐賀市)に生まれる。幼名は鱗三郎。1831年(天保2年)に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主・鍋島斉直から栄寿の名を授かった。佐賀藩校・弘道館に学び、1837年(天保8年)には養父のいる江戸へ遊学、古賀侗庵に学ぶ。 1839年(天保10年)、佐賀に帰り、弘道館で考証学を、松尾塾で外科術を学ぶ。1842年(天保13年)、佐野家の養女・駒子と結婚する。1846年(弘化3年)、京都で広瀬元恭の時習堂に入門し、1848年(嘉永元年)には大坂の緒方洪庵の適塾で学び、さらに紀伊国で華岡青洲が開いた春林軒塾に入門する。適塾では大村益次郎ら明治維新で活躍する多くの人材と知遇を得る。 1849年(嘉永2年)、江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門し、塾頭となる。江戸では戸塚静海にも学んでいる。この頃に勤皇運
土佐藩士時代の後藤 安政5年(1858年)、東洋の推挙によって幡多郡奉行となる。万延元年(1860年)9月、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行を仰せ付けられる。文久元年(1861年)に御近習目付となるが、翌2年(1862年)に東洋が暗殺されると任を解かれた。文久3年(1863年)に勉学のため江戸に出て、開成所で大鳥圭介に英語を学び、会津藩士・高橋金兵衛に航海術を学んだ。元治元年(1864年)に藩政に復帰した。前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て大監察や参政に就き、公武合体派の急先鋒として活躍した。 慶応元年(1865年)閏5月11日、武市瑞山を獄に断じ、次いで慶応2年(1866年)、藩命を奉じて薩摩、長崎に出張、さらに上海を視察して海外貿易を研究した。坂本龍馬と深く交わるようになったのはこの頃である。 慶応3年(1867年)、土佐藩は将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。土
大阪大学(おおさかだいがく、英語: Osaka University[注釈 1])は、日本の大阪府にある国立大学である。略称は阪大(はんだい)。 国内の旧帝国大学7校の1つであり、文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。 概観 豊中キャンパスの正門 大阪大学は、1931年に大阪帝国大学として設立された[2]、国立文理総合大学である。2023年4月現在、11学部・15研究科(うち1研究科は他大学との連合)を擁する。 帝国大学としては比較的新しく、開学当初は医学部と理学部のみで創設された。文理5学部(文学部、法経学部、理学部、医学部、工学部)体制となったのは第二次世界大戦後の1949年のことである。 設立の際に統合した旧大阪医科大学が、江戸時代後期の1838年に緒方洪庵により設立された適塾の流れを汲むことから、大阪大学は適塾を
友米の孫である父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった[注釈 2]。百助の後輩には近江国水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年におよんだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。 なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかな
福井市立郷土歴史博物館蔵(佐々木長淳作) 福井 橋本左内生家跡 京都 橋本左内寓居跡 福井 左内公園の橋本左内像 福井 戦前の橋本左内像 福井 左内公園の橋本左内の墓 橋本 左内(はしもと さない)は、日本の武士(福井藩士)、志士、思想家。号は景岳、黎園(れいえん)[1]。諱は綱紀(つなのり)。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。安政の大獄で25歳で死罪となった。 1834年4月19日(天保5年3月11日)、福井藩奥外科医で25石5人扶持の橋本長綱の長男として越前国常磐町に生まれる[2]。母は小林静境の娘。弟にのち陸軍軍医総監・子爵となった橋本綱常がいる。桃井氏一族の桃井直常の後胤と称した。直常の子孫が母姓を冒して橋本姓に改姓したという。 嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事する[3](適塾時代に、福沢諭吉が左内を尾行したという話があるが、
周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現在の山口県山口市鋳銭司)に村医村田孝益と妻うめの長男として生まれた。生家の村田家については大村益次郎家を参照。 天保13年(1842年)、防府にてシーボルトの弟子梅田幽斎に蘭方医学・蘭学を学び、翌年4月、梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。天保15年(1844年)まで漢籍・算術・習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍中に長崎の奥山静叔のもとへ1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。 嘉永3年(1850年)帰郷し、四辻で開業して村医になり、村田良庵(りょうあん)を名乗った。この名は、すでに弘化3年(1846年)の適塾入門時の名簿「適々斎姓名録」に自筆で記入している。 翌年、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚した。 嘉永6年(1853年)、
大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、江戸時代後期の幕臣(幕府伝習隊長、歩兵奉行)、医師、蘭学者、軍事学者、工学者、思想家、発明家。明治時代の教育者(工部美術学校校長、工部大学校校長、学習院第3代院長、華族女学校校長)、政治家、外交官、官吏。位階勲等は正二位勲一等男爵。 別名、大鳥純彰。号は如楓(じょふう)。家紋は鶴の丸。 1833年(天保4年)摂津尼崎藩の飛地領である播州細念村小字石戸(現・兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙字石戸)に村医者の息子として生まれる。備前岡山藩閑谷学校で漢学、赤穂・中島意庵の下で西洋医学、適塾で医学を学んだ後大木忠益(坪井塾)で塾頭となり江川塾から教授に招聘され尼崎藩に仕官。旗本となり、開成所洋学教授から歩兵頭、歩兵奉行となり伝習隊を結成。戊辰戦争では箱館・五稜郭を占拠し陸軍奉行となる。
適塾(大阪市中央区北浜3丁目) 適塾建物横にある公園に設置された緒方洪庵の銅像 除痘館の跡(大阪市中央区今橋3丁目) 緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)・医師・蘭学者。諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。 大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に大きく貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。 略歴[編集] 文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中国足守藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれる。母は、石原光詮の娘・キャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)。備中佐伯氏は豊後佐伯氏の分家で、佐伯惟定の弟・惟寛を祖とする[1]。8歳のとき天然痘にかかった。 文政8年(1825年)2月5日、元服して田上
坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬[注 1]。他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう)などの変名がある(「手紙と変名」の項参照)。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋において暗殺された。実行犯については今井信郎による自供から、京都見廻組によるものという説が有力であるが[1]、異説もある(詳細は「近江屋事件」を参照)。贈正四位。 高知市の生誕地・北緯33度33分25.8秒
北京のリサーチセンター レノボ(日本漢字:聯想集団、簡体字中国語: 联想集团、繁体字中国語: 聯想集團、拼音: Liánxiǎng Jítuán、英語: Lenovo Corporation)は、アメリカに本店を置き[2][リンク切れ][3][リンク切れ]、北京に本社を置き、シンガポール・モリスビル(アメリカ合衆国ノースカロライナ州)にオペレーションセンターを置く中国のパーソナルコンピュータ(PC)メーカー[2] [リンク切れ]。中国ではスマートフォンメーカーとしても認知されていた[4] が、2015年8月にレノボは携帯電話部門をアメリカのモトローラに統合することを表明し[5]、2016年11月には携帯電話端末をモトローラのブランドに一本化を発表した[6]。 日本法人はレノボ・ジャパン合同会社である。 レノボの旧ロゴ(2003年 - 2015年) 1984年に、中国の研究機関で国務院直属事
蘇寧易購(スニン・コム[1]、英語: Suning.com Company Limited)は、中国の家電などを中心に販売する小売販売会社である。 1990年に蘇寧電器として創業し、事業の多角化に伴い、2013年に蘇寧雲商、2018年2月からは蘇寧易購に社名を変更している[2]。社名に含まれる「蘇寧」は1号店が南京市の江蘇路と寧海路の間に位置していたことに因んでいる[2]。 中華人民共和国28省、直轄市、自治区、190の都市に941店舗を有する。「中国企業500強」で59位、「中国民営500強」で第3位である。日本においては2009年に家電量販店のラオックス(現:ラオックスホールディングス)を買収したことで知られる。 1990年、南京寧海路60号にて200㎡のエアコン販売店を開業。中国では家電販売は当時国営企業の独占だった事業のため、話題となる。同年中に自社のアフターサービスセンターを設立
ベスト電器 福岡本店 (福岡市中央区天神) ベスト電器(ベストでんき)は、ヤマダホールディングス傘下のヤマダデンキが展開する日本の家電量販店。 また、株式会社ベスト電器(英: BEST DENKI CO., LTD.)は、2021年6月30日までこれを展開していた企業である(法人としては解散)。 福岡県福岡市にて1956年(昭和31年)から家電量販を開始した、九州地方を中心に展開する日本の家電量販店チェーンストアの一つ[7]。 1979年(昭和54年)度から1996年(平成8年)度まで日本で業界シェア1位の家電販売店チェーンだった[7]が、価格よりもアフターサービス充実などを重視する戦略が、低価格・ポイント制度を前面に打ち出す北関東YKKを相手に苦戦が続き、シェアを落とす[8]。 2012年(平成24年)12月13日に北関東YKKの一角であるヤマダ電機(現・ヤマダホールディングス)が第三者
基本となる業態は家電専門店のエイデンで、他にパソコン専門店のコンプマート、CD・DVD専門店のディスクステーション、ホームセンターのホームエキスポ等の様々な業態を持つ。子会社のエディオンコミュニケーションズを通じて携帯専門店「ケータイeモール」や各キャリアの名を冠したショップも展開している。また旧東京エディオンとその子会社石丸電気を吸収合併したため、それらが運営した店舗も引き継いでいる。2002年(平成14年)に、株式会社デオデオと共同で持株会社の株式会社エディオンを設立し、同社の完全子会社となり、事業統合した。2009年(平成21年)10月1日をもってエディオンEASTと改名し、今後はエディオングループの中部地方以東での展開を担当することとなる。 出店戦略としては直営の大型店に加え、個人経営の電器店とフランチャイズ契約を結び、系列店としている(エイデンファミリーショップ、通称EFS)。こ
株式会社コジマ(英: Kojima Co.,Ltd.)は、栃木県宇都宮市に本社を構え、「コジマ×ビックカメラ」「ソフマップ×コジマ」「コジマアウトレット」の店舗名で日本国内に141店舗を展開する日本の大手家電量販店。2012年にビックカメラの子会社となった。 1955年4月に栃木県宇都宮市において小島勝平が、個人商店の小島電気商会を創業。1963年8月に株式会社小島電機を設立して法人化している。1972年から栃木県内での多店舗化を開始し、1984年から栃木県外にも進出し、関東を中心に多店舗展開を進める。1993年1月に通称・略称であったコジマを社名に取り入れ、「北関東YKK」と呼ばれる家電量販店3社の一角として激しい競争の中で成長。1996年には東京証券取引所への上場を果たす。そして1997年にはそれまで業界1位だったベスト電器を抜いて家電量販店売上高日本一を成し遂げ、2001年に 家電量
株式会社ケーズホールディングス(英: K'S HOLDINGS CORPORATION)は、茨城県水戸市に本社を置く家電量販店チェーンを展開する企業。子会社8社及びその他フランチャイズ契約加盟店により構成される(2021年3月現在)[1]。家電量販店の売上高では2023年1月2日時点では国内3位だったが[2]、2024年3月期決算で7183億円で国内暫定6位と転落している[3]。主に「ケーズデンキ」(アルファベット表記はK's)の屋号で、家電量販店チェーンを展開している。北関東YKKの内の1つである。JPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ[4]。 1947年(昭和22年) 3月 - 創業者の加藤馨が、加藤電機商会として茨城県水戸市にてラジオ販売・修理業を開始。 1955年(昭和30年) 10月 - 法人化(有限会社加藤電機商会設立)。当時はナショナルショップに加盟していた[5][注
株式会社ヤマダホールディングス(英: YAMADA HOLDINGS CO., LTD.)は、群馬県高崎市に本社を構える、家電量販店を経営するヤマダデンキを中心とするヤマダグループの持株会社である。 概要 旧商号は株式会社ヤマダ電機(英: Yamada-Denki Company, Limited.)。2020年10月1日付で持株会社体制へ移行した。これに伴い、家電量販店事業を新立した株式会社ヤマダデンキ(2020年4月1日に株式会社ヤマダ電機分割準備会社として設立、10月1日付で商号変更)に承継している。 グループ会社で中古家電の整備を行い、自社の店舗で販売していることから電気用品安全法の対象になる家電メーカーでもある[2]。 沿革 参照:ヤマダHD『2023年3月期 有価証券報告書』,2023年6月29日(関東財務局長提出),3 - 5頁。 1973年(昭和48年) 4月 - 日本ビク
株式会社ヨークベニマル(英: YORK BENIMARU CO.,LTD.)は、福島県郡山市に本社を置く、スーパーマーケット事業を行う日本の企業。本拠地である福島県を中心に東北南部から関東北部の5県にかけてチェーン展開を行う。セブン&アイ・ホールディングスの完全子会社である。 ヨークベニマルの「ヨーク」は、Ito Yokado のYokをアレンジしたYorkであり、「ベニマル」は、かつての紅丸商店のBenimaruを合わせたもの。 概要[編集] 本社入口 食料品を中心に衣料、雑貨などを扱うスーパーマーケットで、店舗数は246店である(2023年2月現在、休業中の2店舗含む)[広報 1]。福島県、宮城県、山形県、栃木県、茨城県でドミナント出店している。2000年代以降は、ヨークタウンと呼ばれるドラッグストアやホームセンターなどと複合したオープンモール型のショッピングセンターによる出店が多い。
この項目では、セブン&アイ・ホールディングス傘下の銀行について説明しています。質屋の隠語としての用法については「質屋#日本の質屋」をご覧ください。
デニーズは、カリフォルニア州レイクウッド(ロサンゼルス郊外)でハロルド・バトラーによって1953年にDanny's Donuts(ダニーズ・ドーナッツ)を開業した。1956年にはDanny's Coffee Shopsへとコンセプトを変え、1959年にはDenny's Coffee Shopsに改名[2]し20店舗を数え、1961年にはチェーンをDenny'sと改称した。チェーン店は年々店舗数を増やし、1981年には1000店を数えるまでになった。1977年には、現在も定番として親しまれているグランドスラム・ブレックファースト(卵料理、ソーセージまたはベーコン、トーストまたはパンケーキ、サラダ、ジュース、コーヒーなどがセットされた朝食のフルコース)をメニューに加える。1994年には、デニーズは、「子どもたちを救え」という全米規模のチャリティのスポンサー企業となった。 現在のデニーズの本拠地
協和キリン株式会社(きょうわキリン)は、医療用医薬品事業等を行う、製薬企業である。かつては、日本酒・焼酎・ワインの製造を手掛ける酒造メーカーでもあった。キリンホールディングスの子会社で、キリングループに属する。日経平均株価の構成銘柄の一つ[1]。 1937年に寳酒造・合同酒精・大日本酒類醸造の共同出資によって設立された「協和化学研究所」を淵源とする。当時は軍事用としてアセトン・ブタノールやイソオクタンの必要性が高まり、アルコール発酵の応用でアセトン・ブタノールやイソオクタンの微生物発酵による合成を研究することが主目的であった。1944年に製造プラントを稼動したが、眠り病など異常発酵の解決に手間取り、実際に量産体制を整えたのは終戦後の1948年となる。戦時中被害からの企業再整備に伴い、1949年に現在の会社を設立した。加藤辨三郎が初代社長に就任し、発酵技術を基盤としてペニシリンやストレプトマ
特記事項:2006年12月、TOBによって味の素が主要株主ではなくなり、2007年7月にキリンホールディングスの事業子会社となる。 ワインブランド「メルシヤン」(のちのメルシャン)は1949年(昭和24年)に日清醸造が設立した。日清醸造は、1944年(昭和19年)に山梨県東山梨郡勝沼町(現在・甲州市勝沼町)に設立された日本連抽株式会社を前身とするワイナリーである。現在でもこの場所にメルシャンの工場がある。「メルシヤン」の名前はフランス語の「Merci(メルシー)=感謝する+an(アン)=人」が由来で、ワインの原料を育てる自然に対する感謝の想いが込められていた[2]。 味の素の創業者として知られる鈴木三郎助の弟・鈴木忠治が、化学調味料製造の際に発生する大豆粕を原料にアルコール・合成清酒製造を目的として1934年(昭和9年)に「昭和酒造株式会社」を設立する。川崎に工場を竣工し、合成清酒「三楽」
関連商品のリターナブル瓶 左から 1:キリンレモンクレール (1965年 発売当初の瓶) 2:キリンレモン (1958年 初のACL印刷瓶) 3:キリンレモン (1970年代) 4:キリンジュース (1954年 発売当初の瓶) 5:キリンジュース (1960年代) 6:キリンオレンジ (1970年代) 7:チェスタ(1973年 発売当初の瓶) 8:チェスタ (1970年代後半) 9:キリンタンサン(1950年代) キリンビバレッジ株式会社(Kirin Beverage Company, Limited)は、日本の清涼飲料水メーカー。清涼飲料などのRTD (Ready to Drink) 製品の製造および販売を行っている[2]。キリンホールディングス株式会社の機能子会社で、三菱グループに属する。 1963年(昭和38年)4月15日、麒麟麦酒株式会社(旧制、現・キリンホールディングス)がキリン
特記事項:現在のアサヒ飲料株式会社は1982年設立(三ツ矢フーズ株式会社)だが、創立は1990年9月1日(アサヒビール飲料株式会社+西日本・東海・九州アサヒビール飲料の各社を合併)。 関連商品のリターナブル瓶 左から 1:三ツ矢シャンペンサイダー(1950年代) 2:三ツ矢サイダー(1960年代) 3:三ツ矢サイダー(1972年 初のACL印刷瓶) 4:バャリースオレンヂ(1952年 日本初のACL印刷瓶) 5:バャリースオレンヂ(1970年代) 6:ウヰルキンソンタンサン(1940年代) 7:ウヰルキンソンタンサン(1950年代) 8:ウヰルキンソンジンジャーエール(1970年代) アサヒ飲料株式会社(アサヒいんりょう)は、1982年(昭和57年)に設立されたアサヒグループホールディングスの清涼飲料水部門の子会社。本社は東京都墨田区吾妻橋1丁目23番1号。 120余年に及ぶ炭酸飲料のロン
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