太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領(豊臣蔵入地)の設置[8][9][10]や、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権(中央)による地方大名への支配力強化を進めようとする石田三成・増田長盛らの強硬・集権派と、これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立[11] が抗争の背景にあったとする説である。 一方、戸谷穂高は宥和・分権派として浅野長政の名が挙げられている点について、「その論拠は一切示されておらず」強硬・集権派との「対立構図自体にも再考の余地が見だされる」としている[12]。文禄2年浅野長政は甲斐へ国替えとなり伊達・南部・宇都宮・成田らの東国諸大名を与力とするが、それ以降、運上金増収を目的とした大名所有の鉱山への支配強化や、日本海海運の掌握を進め[13]、また宇都宮氏・佐竹氏の改易を主導するなど[14] 宥和・分権的とは言い切れない動向も見られる。曽根勇