おもしろいんだけど、定食文化はこのまま無視していくのかなあ。ときわ食堂とか語ってほしい。『孤独のグルメ』や『駅前の歩き方』の方が趣味に合う。
以前から陽明学陽明学騒いでるやつらってカルトっぽいなと思ってたけど、収録されていた小林准士「近世における「心の言説」ー「心法」と「信心」のあいだー」に、その答えが思想史的な研究として書いてあって、たいへん勉強になった。一般民衆に自分を信じさせることで性善を信じさせるというカルトな構造が盤珪禅の本体そのものだという指摘は、まさに我が意を得たり。そしてただ気持ち悪がっていた自分を反省。
系譜学的なアプローチで考えれば、やはり近代以前の宗教文化にキャラの淵源はあると考えた方が通史的な合理性はある。つまり人間でない何かとのコミュニケーションを可能にするための擬人化インタフェースとして神=キャラが要請された。それは脳のコミュニケーション機能を人間でないものに転用したものなので、強度は申し分ない。古代においては、山の向こうから来る人の姿をしたものが人間かどうかすぐに決定することはできなかっただろう。だから神とのコミュニケーションは必ずしも特殊なものではなかった。人間相手とのやりとりの延長だったはず。そうして生まれたキャラを媒介とするコミュニケーションが宗教から芸能(演劇や文学)にも伝わっていって、むしろ近代以前の基調はこちらであった。と考えるとすっきりすると思う。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く