ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、昭和47年7月、馬場が新団体設立へ動いた新しい門出の季節についてお届けする。 * * * ジャイアント馬場が日本プロレス協会を退団、独立を表明したのは昭和47年7月29日のことだった。この日、馬場は役員を務める日本プロレス興業と日本プロレス選手会に辞表を提出し、同日午後6時から東京・赤坂プリンスホテルで記者会見を開いた。 『第1次サマー・ビッグ・シリーズ』を開催中の日本プロレスは、この日は移動日のためオフで、馬場の突然の行動に、芳の里代表をはじめとする首脳陣は「まったく寝耳に水」と驚いた。記者会見の席上、馬場が読み上げた“所信表明”は以下のような内容だった。 「日本プロレス界は、その創世期
がん検診には利益と不利益がある。利益は早期発見・早期治療によって、がんによる死亡や進行が減ることである。不利益は偽陽性や過剰診断などである*1。偽陽性は、実際にはがんではないのに「がんの疑いがある」と診断されることで、過剰診断は、将来死亡や症状を引き起こさないがんを診断されることである。偽陽性と過剰診断は異なる概念である。詳しくは■「過剰診断」とは何かで解説した。 偽陽性は、精密検査でがんでないと診断されるので、がんの治療まではなされない。しかしながら、余分な検査や精神的な不安を招く。過剰診断は、たいていはがんの治療を受けることになるので、不利益はさらに大きい。 あらゆる医療と同じく、がん検診を受けるべきかは、利益と不利益のバランスによって決まる。個人の価値観や個人的なリスク(家族歴など)にも左右されるが、平均的なリスクを持つ人たちに対するがん検診については、公的機関がガイドラインを発表し
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