視覚表現の実験はこれまでも常にやってきたし、これからもドンドンやっていきたいくらい好きですね。 連載2回目の記事はこちらーー 「クリエイティブ・ラボPARTY 川村真司さんとの対話 [前編]――触覚とクリエイティブの未来(2/3)」 ―― 川村さんのルーツや背景は、どこからきているのでしょうか? 川村 :アートや映像はきちんとは勉強してこなくて、大学(慶応義塾大学)ではプログラミングを学んでいました。SFCという場所だったんですが、 佐藤雅彦 先生の研究室に一期生として入りました。ご本人のことも知らず、電通もどこかの電気屋さんかなくらいな気持ちでいたのですが、何故か入ることができて、そこでものをつくるおもしろさや、発想法を学びました。 ■川村真司(かわむら まさし) クリエイティブ・ラボPARTYクリエイティブディレクター/共同創設者。数々のブランドのグローバルキャンペーンを始め、プ
実際には触っていないけれど、触っている感じ。僕は「擬似インタラクティブ」と呼んでいたんですけれど、そういうものが作れないかと試行錯誤しました。 連載1回目の記事はこちらーー「安室奈美恵MVで使われた「視覚が生み出す触感」ってなんだ?――触覚とクリエイティブの未来(1/3)」 ―― 安室奈美恵さんの「Golden Touch」のMVが話題になりました。あれはどのような経緯で作られたのでしょうか? 川村:ミュージックビデオには、音と関係ない映像を好き勝手に作るタイプのものも多いんですが、僕の場合はアーティストの音楽の世界やコンセプトをなるべく守りつつビジュアライズするタイプで、歌詞やタイトルから発想を膨らませます。「Golden Touch」というタイトルから、触れてインタラクティブに楽しめる映像表現だと、曲とシナジーのある世界が作れるのではと当初考えました。 川村真司(かわむら まさし)
2015年5月に発表された安室奈美恵さんの新曲、「Golden Touch」のミュージックビデオ(MV)をご存知でしょうか。「Golden Touch」とは、「触れるもの全てを別のものに変えてしまう力」のことを意味し、まさに、視聴者は、画面に指で触れることを通して、映像を「触感」に変える体験をすることになります。 「Golden Touch」(安室奈美恵、2015)のMV。 できれば、一度目は画面に触れて、二度目は触れずに鑑賞してみてください。 触感を体験するには、まず、画面中央の印に指を置きます。音楽が始まるとともに、指に向かって風船が近づいてきて、指のところでパーンと割れます。映像だけ見ていると、ただ、風船が動いて割れるだけなのですが、画面に指を置いていると、あたかも風船が指にぶつかって割れたような感覚が生じます。MVでは、風船だけではなく、指先に小鳥が乗ったり、将棋の駒を押したり
書くことは自分との対話。書いて、読み、直すうちに書きたかったことが見えてくる 文章を他人に向けて書き始めるとき、何が書かれることになるか、僕は分からない。メールならその相手に対して、多くの人に見られることになる文章なら世の中に対して、ぐちゃぐちゃに固まった感情の塊だけがある。その感情の塊を丁寧にほぐして、一本の糸を引き出していくように、少しずつ書き始める。 書いて、読み、直し…、読み、直し…を繰り返す。書くときは一生懸命誰かに話すときのように書き、直すときは、少し前の自分とじっくりと対話をするように読みながら直す。少し前の自分ですら、今の自分にとっては他人になっているから、他人と同じようにたくさん会話ができる。例えば、少し前の自分の、他人にこう見られたいという欲求が文章の中に見つかる。それが見え透いていて辛いとき、彼にその部分を削ることを求める。 また、何を書いているのか分からない言葉
目の見えない人の実在との距離感。視覚がなければ、もっと自在に世界を「編集」できるようになる。 見えるものは実在する。私たちはそう確信して日々生活しています。疑い深い哲学者ならいざ知らず、コップに手を伸ばしながら「このジュースはバーチャルかもしれないから気をつけよう」なんて考えることは普通ありえません。私たちの目がそのくらい慎重だったら、バーチャルリアリティなど成立しえないでしょう。 ところが視覚を遮断したとたん、この大前提がくずれ去ります。さっきまでそこにあったとしても、目をつむってしまえば存在そのものがあやふやになります。ふいにウェイトレスがやってきてそっとコップを片付けてしまうかもしれません。となりにいる友人がこっそりジュースを飲んでしまうかもしれません。確かな実在であったものが、「たぶんそこにあるはずだ」という留保つきの情報に変わること。これが視覚のない世界の特徴です。目の見えない
出会いにおける疑問と期待。ナンパで「出会う」ことはできるのか。 別れについて、僕は分かる。それは受け容れるしかないから、何かを待ち受ける必要も、未知のものが訪れる期待を抱く必要もない。静かに水の中に沈んでいくようなもので、もしじたばた足掻けば、助かることはないのに余計に苦しい思いをしてしまう。静かに受け容れると、自然と落ち着くところへと沈んでいく。 しかし、出会いについては、いつも分からない。 自分に、新しい出会いがいつ訪れるのか。いつも疑問と期待を抱き続けている。 ナンパは出会いのように思えるが、経験上、僕にとってはそうではない。ナンパにあるのは、自分の頭の中にある出会い方の反復を行っているだけで、既に知っていることをやるという無難な快楽を味わっているだけである。ナンパの出会いの中で、今でも印象に残っている、出会いだったと呼べるものは少ない。過剰に他人との接触を求めたことは、寧ろ、
人間は知覚の大部分を視覚に頼っていると言われます。では、眼を持たないダニにとって、世界はどう「見える」のでしょうか。そして、嫌われ者のダニを研究する研究者の見ている世界とは――? ダニには眼がないか、または、眼があっても光の方向を感じることができるような眼しか持たないものが多い。このため、ふつうはどのダニでも、第1脚(いちばん前の1対の脚)をまるで暗闇の中を手探りで進むように使い、周囲の障害物などを察知しながら生活している。 ダニ学者の見ている世界 僕はダニ学者である。まだ名前のついていないダニを求めて世界中を旅する。人間には嫌われ者のダニを研究することを仕事にしていると、ふとした瞬間に僕自身も世間の人々とは「見ている世界が違うんだな」と感じることがある。 「あいつらは街のダニだ」と言ったりするように、ダニは嫌われ者の代名詞だ。仕事がたまっているときに、学生に「申し訳ないが、今日の午後は、
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く