時は二〇世紀の最初の年、夏七月。場所は北京紫禁城。日本人建築史家による最初の海外フィールド・ワークがおこなわれようとしていた。プロジェクト・リーダーは東京帝国大学造家学科助教授伊東忠太三十四歳、のちに明治神宮、築地本願寺[挿図1]、震災記念堂などを設計し、戦後には建築家として初めて文化勲章を受けるはずの人物である。ここで言う造家学科は、東京大学建築学科の前身である。本業である建築史家としての業績は後に述べるとして、法隆寺の柱のむくりをギリシア建築のエンタシスが伝播してきたものであると主張したのが、この伊東忠太であると知っておいてもらえば、今はよいであろう。 調査チームは、建物の実測が忠太より七歳若い工学士土屋純一、装飾物観察は大学助手奥山恒五郎、そして、建築写真がカメラマンの小川一真の担当である。その他、小川の従者ふたり、通訳の外語学校支那学卒業生岩原大三郎[41]の計七名である。ちなみ
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