2012年8月5日のブックマーク (5件)

  • 澤穂希はなぜ特別な存在なのか?超一流たちに見た「走る」の奥深さ。(Number編集部)

    めまい症を患い、一時は五輪での活躍も危ぶまれたが、チームの中心として戻ってきた澤穂希。4年前の北京五輪、宮間あやに「苦しい時は、私の背中を見て」と声をかけたと言われるが、その姿勢は今も変わらない。 走る。 跳ぶ、投げる、泳ぐ、打つ、組む、射るなど、様々な動きを要求されるアスリートにとって、この動作は最もシンプルかつ基的な身のこなしだろう。 数年前から日でもランニング人口が増えており、アスリートでなくても「走る」ということが身近になっているが、世界中から一流アスリートが集うオリンピックの現場で取材をしていると、「RUN=走る」というシンプルな行為に隠された様々な意味が見えてきた。 今回、「走る」のが分である陸上競技は取り上げていないが、これまでに目撃した3つの印象的なシーンから、改めて気づかされたその行為の奥深さを探ってみたい。 柔道57kg級の松薫が鬼気迫る形相で見せた「走り」。

    澤穂希はなぜ特別な存在なのか?超一流たちに見た「走る」の奥深さ。(Number編集部)
    nusrat
    nusrat 2012/08/05
    澤さんはブラジル戦でもよく走っていました。苦しいときこそ、歯を食い縛るか。俺も頑張ろう!
  • ブラジル撃破で証明した守備の進化。なでしこ悲願のメダルへ見えた光明。 (河崎三行)

    FWの大儀見(写真右)、大野に駆け寄るDFの熊谷(左端)や岩清水(左から2人目)。先制弾を決めた大儀見は「DF陣が苦しい時間帯を防いでくれた」と感謝の気持ちを表した。 およそ勝負事というものは、明白な必然性がない限り、余計な動きを見せた方が負ける。 結果論の誹りを受けることを承知で言うが、ブラジルが日戦を迎えるにあたり4バックに再変更した時点で、自身の戦い方に迷いを持っていることを敵に白状してしまったようなものだった。 準々決勝前の展望記事にも書いたが、昨年の女子W杯までのブラジルは、スイーパーを一人余らせたマンツーマンの3バックディフェンスだった。いかにも時代に取り残された戦術で穴も多かったが、彼女たちにしてみれば慣れた守り方だったし、その戦術でアテネ、北京と2大会連続の五輪銀メダルを獲得してもいた。 だが現バルセロス監督がW杯後に監督へ返り咲くと、他国に倣って4バックのラインディフェ

    ブラジル撃破で証明した守備の進化。なでしこ悲願のメダルへ見えた光明。 (河崎三行)
    nusrat
    nusrat 2012/08/05
    あのブラジルが、フォーメーションが時代遅れだったとは。そうしたことはNumberを読むまで分からなかったよ…
  • 東京新聞:脱原発 民意明確に 67%「ゼロ」選択:社会(TOKYO Web)

    将来の原発比率をどうするか、政府が国民から意見を聴く会が四日、高松市と福岡市で開かれ、すべての日程が終わった。全国十一会場で参加者が突きつけた声は、70%近くまでが原発ゼロだった。細野豪志原発事故担当相が「最も重要な聴取会」と述べた福島市の会場では「すべての原発の即廃炉」が圧倒的だった。東京電力福島第一原発の事故を受けて明確に示された「脱原発依存」の民意。政府はその声をしっかり受け止め、政策に反映させていくことが求められる。  聴取会は七月十四日にさいたま市でスタートし、仙台、名古屋、富山など十一都市で開かれた。運営をめぐっては、原発比率の選択肢が0%、15%、20~25%の三つしかない点や、政府が15%を落としどころにしたがっている意図が見え隠れする点をはじめ、さまざまな問題点が浮かび上がった。 0%の選択肢について発言を希望した人の割合は67・9%に達した。三つの選択肢以外の発言を求め

    nusrat
    nusrat 2012/08/05
    政府に国民(?)の意思は本当に伝わったのか。今後の政府の動静が気になります。
  • 東京新聞:無事帰って 祈る千人針 千代田・昭和館で戦争企画展:東京(TOKYO Web)

    nusrat
    nusrat 2012/08/05
    職場の近くにある施設だけど、なかなか入る機会がないなぁ
  • 東京新聞:太平洋戦争末期 列車銃撃事件 風化させない:東京(TOKYO Web)

    太平洋戦争末期、八王子市裏高尾町の湯(い)の花トンネルで起きた米軍戦闘機による列車銃撃事件の「慰霊の集い」が五日、行われる。地元住民の「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会(いのはな会)」が始めて二十九回目になるが、会員らの高齢化が進み、記憶の継承を危ぶむ声も出ている。 (福岡範行) 事件の風化を防ぎ、失われていた犠牲者名簿を調べ直そうと、地元住民が会を結成したのは一九八四年。それ以前は宗教団体が慰霊行事を行っていたが、会が毎年集いを開いている。九二年に確認できた犠牲者四十人余りの氏名を刻んだ慰霊碑を建立した。 集いは報道などで年々知られていき、当時の列車の乗客や遺族が参列するようになった。「車内は血の海だった」「帰宅後、血まみれのブラウスを洗ったら、人の肉片が付いていた」などの体験が語られた。近年は当時を知る人は減ってきたが、それでも七十人は参列し、注目度は保っている。

    nusrat
    nusrat 2012/08/05
    太平洋戦争時にこうした事件があったとは初耳。