漫画界の大家として後進から尊敬を集めた杉浦茂にとって、漫画は“脇道”だった。 「洋画をね、日本画もそうだけど、油絵を、片手間に、やれる仕事じゃないですよ。だからね、理想としてはね、朝御飯すんだら、すぐ画室に入ってね、夕方まで、そこで悪戦苦闘してね、絵を仕上げていくっていう、そういう生活態度でないと(中略)それができない人は、脇道へ行くしか仕方がない。私みたいにね(笑)」(『彷書月刊』1994年3月号より) 画家という職業について、杉浦は雑誌のインタビューにこう語っていた。 もともとの志は、洋画にあった。旧制中学卒業後、私立太平洋画研究所へ入所。帝展(日展の前身)入選を果たすなど、画家への道を着実に歩んでいた。だが、父の死や経済的事情で断念せざるをえず、知人の紹介で漫画家、田河水泡に入門する。杉浦はこのとき、24歳だった。 杉浦に、絵画への未練はあったのだろうか。遺族によると、死後、仕事部屋