ダメージ加工による着込んだ感じとは、 社会とのインターフェースを形成する洋服を 自分の皮膚の延長としてとらえるものでもあり、 その意味では、自己の領域をわずかでも拡大しようという 疎外感の現れでもあるのだろう…… というか、ブログそのものを、自己領域の拡大と呼べる「賭け」みたいなものとして抱える人々も多い。表現の場を持って語ること、とくに書くことによる私の延長は果てしない夢を見せてくれる(カラオケのように?)。彼らがブログを手放せないのではなく、ブログの方が彼らを手放さない。そしてそういったブログは、自分と深く馴染むようにダメージ加工が施されている。 現在、現代詩批評の第一人者である城戸朱理は、ブログをただの日録として書いていて、旅行記やそこで食した食べ物、骨董、送られてくる詩誌などの覚書程度のことしか書かない。あ、それと自分の著作の宣伝。そういったことが可能なのは、メジャーの位置に紙媒体