ojintanのブックマーク (6)

  • 私の懐古録 代官山 昭和50年代…07 - ojintan’s diary

    代官山クリニックがあった場所 「代官山クリニック」2 会社には、「漫画制作部門」があった。部長はTK田氏、隔週青年誌YCで連載をしていた。リアルな時代劇で、歴史学者から、漫画なのに歴史的事実に元づき時代考証がしっかりしている、と言われていた。 そのTK田氏の下に、4人のチーフがいた。 一般週刊誌Pに時代劇画(当時は劇画と呼称していた)を連載しているKS見氏、半年前まで青年劇画誌に連載を持っていたHY崎氏。青年劇画誌Pに刑事物を連載しているS作K氏、そして少年週刊誌Sに連載を持っているYK山氏がいた。 皆、有名な劇画作家TS藤先生のプロダクションにいたメンバーが、独立し作った会社だった。 名をスタジオ・オリオンとよんでいた。 会社の組織もTS藤先生のプロダクションとほぼ同じだった。チーフの下にサブ・チーフがいて、その下にスタッフがいた。そして漫画制作部には資料室なるものもあった。 シナリオ脚

    私の懐古録 代官山 昭和50年代…07 - ojintan’s diary
    ojintan
    ojintan 2023/05/18
    昭和50年代、今ほど発展していなかった頃の代官山。
  • 私の懐古録 代官山 昭和50年代…01 - ojintan’s diary

    01今の代官山駅 昭和50年代は、私にとって見るもの聞くもの何もかもが珍しいものだった。 限りなく茨城県に近い千葉に住んでいた私は、東京代官山の会社に入った。 通勤時間は2時間。山手線に乗るまでに1時間はかかるところに住んでいた私には代官山は見知らぬ街だった。 渋谷で乗り換え、東横線で一駅。薄汚れたホームは、先頭の車両がはみ出し、ドアが開かなかった。 もらった地図通りに歩いていくと、大きなマンションが駅前にあり、メイン通りに出るためには、そのマンションを回り込まなければいけなかった。邪魔なマンションだな、と思いながらメイン通りに出ると、ビルが並んでいる。 その一角に代官山診療所があり、ふたつとなりにはしゃれたスナックがあった。確か女の子の名前が店名となっていた。 その店はT字路の交差点の角にあった。信号を渡ると三件目くらいに代官山郵便局があった。地図にはその郵便局を目標に、数軒先のビルの二

    私の懐古録 代官山 昭和50年代…01 - ojintan’s diary
    ojintan
    ojintan 2023/05/18
    昭和50年代の代官山 昭和感あふれたレトロな町だった。
  • 私の懐古録 代官山 昭和50年代…4 - ojintan’s diary

    S氏は,私より少し年上だった。 子供向け番組の企画、制作、脚化にはたくさん携わってきたという。 今回の大手映画会社は、子供向け番組を軽く見ていたようだ、と言っていた。 そのため子供向け番組の作り方を理解していないらしい。 だから社の若手プロジューサーが、でてきたというのだ。 先日、私の企画書をほめてくれたのがその人らしい。 適当にまとめ上げて提出しても、企画は通るだろうとS氏は言った。 しかし当時のTV 業界は、「ウルトラマン」などヒット作品が次々と生み出され、レベルはあがってきていた。 下手な企画書などでは没になる可能性があった。 ここは真面目に取り組んで、シナリオの一角にくいこまなければいけない。 私はチャンスかもしれない、と思った。 ここで認められれば、名前をあげられるかもしれない。 今まで適当にやっていた私は久しぶりに、真面目に取り組んだ。 S氏はホテルのラウンジやクラブなどに

    私の懐古録 代官山 昭和50年代…4 - ojintan’s diary
    ojintan
    ojintan 2023/04/26
    代官山駅 懐古録
  • 私の懐古録 代官山 昭和50年代…3 - ojintan’s diary

    たんなる習作を繰り返しているだけなので、作品に心が集中できなかった。 思い付きをてきとうに書いていく日々が続いた。 いつもの悪い癖が出たのだ。よい評価は出ない。 同期入社のほかのものは、小さいながらも掲載されるものを書いていた。 企画書を作る作業も多かったが、どうせ形にならないだろうと、定番のものを提出していた。 そんな中、子供向けのSF番組の企画書が大手映画会社のプロデューサーの目に留まったようだった。 この企画を練り上げて来春放送予定の夜6時台の子供番組にしたい。 ついては、来週から1週間Pホテルに泊まり完璧な企画書を練り上げてほしい、ということだった。 私は、ホテルに缶詰めなどということは、話には聞いていたけれど、実際にあるとは思っていなかったので、話半分にきていた。 あんな適当にでっち上げた企画にのるなんて、胡散臭い話だ、と思っていた。 同席していた専務は、素晴らしい、ぜひ放送にこ

    私の懐古録 代官山 昭和50年代…3 - ojintan’s diary
    ojintan
    ojintan 2023/04/23
    昭和50年代…。古い代官山
  • 私の懐古録 代官山 昭和50年代…2 - ojintan’s diary

    令和5年の代官山駅ホーム 新しくできた「シナリオ脚部」は3階のエレベーター脇にあった。 できたばかりのせいか、中には机と椅子が5台あるだけだった。 みな壁に向かって並んでいた。原稿を書く際に、お互いが邪魔にならぬように、間仕切りもついていた。 ここで会社の名前で書かれている企画作品を、毎日書いていくのである。 あくまでも練習課題である。 会社では、映画作品やTVドラマ、劇画原作などの企画、制作を架空の名前で提供していた。 架空の名前はプロダクション脚部制作もあったが、ペンネームの個人名が多かった。 作品は映画作品、TVドラマ、当時はやりだした劇画作品まで,いろんなジャンルに広がっていた。TVドラマや劇画作品は、毎週発表されていた。 それらは、脚部の先輩ライター達が持ち回りで書いていた。 われわれ新人には、回ってくることはなかった。 ひたすら練習課題を書き続けるだけであった。その出来上

    私の懐古録 代官山 昭和50年代…2 - ojintan’s diary
    ojintan
    ojintan 2023/04/22
    高級マンションと同潤会アパート、カナダなどの大使館がある街、代官山。
  • 銀杏をなんとよむのか? ? - ojintan’s diary

    銀杏と書いてなんと読むのか? イチョウか、ギンナンか? 広辞苑には、どちらもある。イチョウは、落葉高木、中国からわたってきたようだ。 ギンナンは、イチョウの種子とある。 ちなみにイチョウには、公孫樹と鴨脚樹がある。 三省堂の「明鏡国語辞典」には、銀杏が見出しになっているが、岩波書店の「広辞苑」には鴨脚樹が見出しとなっている。 鴨脚をイチョウと読むのはワシが30歳過ぎたころに知った。知人に中学の国語の先生をしている鴨脚◯◯子という女性を紹介されたからである。わしの美意識からは、外れていたが、いかにも女の先生という風貌だった。メガネをかけていたからだろう。京都に住み、由緒ある家の人だったような気がする。 あの人も還暦(60)を過ぎたはずだ。元気にしているのだろうか?

    銀杏をなんとよむのか? ? - ojintan’s diary
    ojintan
    ojintan 2022/11/27
    おジンの繰り言だな…。
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