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圏論と宗教に関するomega314のブックマーク (4)

  • 仏教のキーワードのひとつに「空」(くう)がある。般若心経の一節、「色即是空 空即是色」にも出てくるあの「空」である。 仏教関係の書物を読み始めたとき、これがさっぱりわからなかった。しかし、ひょんなことからわかってきた。実際には、「空」がわかるためには、「自性」(じしょう)・「縁起」をわかる必要がある。 この3つが、同時にわかったと思えたのは、ナーガールジュナの『中論』をはじめとする、彼の一連の論文を読んでいるときであった。ナーガールジュナ(Nagarjuna:龍樹)は、釈迦の死後約500年ほどしてインドに現れた。(西暦50年から150年頃)大乗仏教に哲学的基盤を与え、後の仏教書で、彼の影響をうけていないものなど、ひとつとしてないといってよいほど、大きな影響を与えた人物である。ただ、彼の言っていることはどれも難解で、特に、独特の論理展開に慣れないと、詭弁を弄(ろう)しているとしか思えない面が

    omega314
    omega314 2014/01/12
    やはり圏論マインド的なのを感じる。
  • 仏教の悟りを解説したDr.苫米地の動画が凄い

    日常でも頻繁に使う「悟った」って言葉。深く理解した時や何となく洞察した時なんかに使います。語源は恐らく釈迦の悟りなんでしょうが、釈迦は何を悟ったの?悟りってなに?と、いろいろ悟りについて調べ始めると、調べれば調べるほど訳が分からなくなります。 仏教は宗教なんですが、他の宗教みたいに神を信じましょう!じゃなく、哲学なんですね。 釈迦の悟りについて、仏教については、マッドサイエンティストDr.苫米地の説明が凄く分かりやすい。エンジニアとか理系の人には特に腑に落ちる説明で、数学的でアルゴリズミック。 『超天才Dr.苫米地のスピリチュアルのウラ』では、あのスピリチュアリストの江原さんが批判されてるので、見る人によっては不快かもしれないし「江原さんはいい話沢山してくれて役立つのにDr.苫米地は自慢っぽい!」って人格的なとっつきにくさ、あるかもしれないですが、天才なんでしょうね。慣れると笑えます。 超

    仏教の悟りを解説したDr.苫米地の動画が凄い
    omega314
    omega314 2014/01/03
    "圏論"的な→『自我を説明しようとしても、自分の親はこの人とか好きな食べ物とか、他との関係性しかでてこない(他との関係の結びつきこそ縁起) (中略) 自我は関係性(線)でしか表現できない実在しない点である。』
  • 信仰心のない人の弱さについて

    トラバやブクマのコメントで、お前の苦しみは信仰が無いこととは関係はないのではないかという指摘を幾つか頂いている。まさしくそうだと思う。私は自分の苦しみを他者に重大に聞こえるように偽装している。結局のところ私の苦しみは「濃密な人間関係の無さ」「他者への信頼感の薄さ」にあって、それは単に気質の問題に帰着するのだと思う。 人付き合いに気になれない人間がどうやって孤独を感じずに過ごせるか、という言い方のほうが正確なのかもしれない。しかし、これで何かが解決するかといわれれば、かえって遠ざかったような気がしなくもない。悩みを解決するとっかかりが見いだせないというか。 ただ無宗教の問題は単に偽装のためだけに挙げたわけではなくて、西洋思想や文学を読み解きたいという知的好奇心をともなって起きたもので、これはこれでまた別の悩みというか趣味的な探求心として心のなかにある。これについては改めて、今度は個人的な問

    信仰心のない人の弱さについて
  • 空 (仏教) - Wikipedia

    仏教における空(くう、梵: śūnya [シューニャ]または梵: śūnyatā [シューニャター]、巴: suññatā [スンニャター][1])とは、一切法は因縁によって生じたものだから我体・体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと[2][注釈 1]。空は仏教全般に通じる基的な教理である[2]。 原語・原義[編集] 原語はサンスクリットの形容詞 シューニャ(śūnya)、名詞形はシューニャター(Śūnyatā) で、後者は「空なること」を意味するため、しばしば空性と漢訳される[3][2]。śūnya は舜若(しゅんにゃ)と音写し、 śūnyatā は舜若多(しゅんにゃた)と音写する[2]。 シューニャ(サンスクリット語: शून्य, śūnya)は、śū (= śvA, śvi、成長・繁栄を意味する動詞)からつくられた śūna から発展し、「…を欠いていること」という

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