栃木県上都賀郡西方村で農家の三男として生まれて育つ。幼少期からきかん坊で近所のガキ大将であった。小学校と尋常高等小学校を終えて公民学校を卒業すると、さらに早稲田中学講義録で独学し、専門学校入学者検定試験[1]に合格する。1939年に満蒙学校専門部へ入学して3年間学ぶ。 1941年3月に宇都宮第36部隊へ現役で入隊し、直後に満洲へ渡り斉斉哈爾(チチハル)第219部隊に配属される。斉斉哈爾第219部隊は宇都宮歩兵第59連隊を主体とした部隊で、仮想敵のソ連軍侵入に備えてノモンハン付近、アルシャン、ノンジャン、ハイラル一帯の国境警備隊として活躍する。弘は第59連隊第1大隊第1中隊(通称石原中隊)擲弾筒分隊に配属され、アンガウル戦時は15人を率いる擲弾筒分隊長として指揮する。 当時から剣道と銃剣術の有段者で、特に銃剣術に秀でた。チチハルの営庭で訓練中に陸軍戸山学校出身の准尉から、「お前の銃剣術は腰だ
男爵・西徳二郎の三男として東京市麻布区麻布笄町(現在の港区西麻布。住居は麻布桜田町付近)にて生まれた。正妻でない母は、出産後、家を出された。父は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、駐清公使時代には義和団の乱処理に当たった人物であった。義和団の乱の処理の際、清の西太后から中国茶の専売権を与えられ、巨万の富を手にしたといわれている。 学習院幼稚園を経て、学習院初等科時代は近隣の番町小の生徒と喧嘩を繰り返す暴れん坊であった。1912年(明治45年)には徳二郎が死去し、同年3月30日、その跡を継ぎ当主として男爵となる[3][注釈 1]後見人は西伊佐次。妻となる武子の祖父は川村純義海軍大将、父は伯爵・川村鉄太郎であり、武子の長姉・艶子は阪本釤之助の子で第二次世界大戦中の駐スイス公使時に終戦工作に奔走する阪本瑞男に嫁いだ。武子の次姉・花子は柳原白蓮の異母兄である柳原義光の後妻。子に長男の泰徳に、長女と次
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