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ブックマーク / mazmot.hatenablog.com (5)

  • 翻訳の思い出 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    自分名義の翻訳書が何冊かあるので「翻訳者」を名乗ってもバチは当たらないと思うのだけれど、経済的な寄与でいったら私の生涯の収入に翻訳からの印税や翻訳料が占める割合はそれほど多くない。いろいろな半端仕事を継ぎ接ぎしながら生きてきた、そのパッチワークでちょっと色のちがう柄が翻訳だという程度のことだ。なかには潰れた企画やムダ働きになった仕事もあったけれど、それらのおかげで多少は英語に詳しくなれたのだから文句はいえない。実際、翻訳で初めてお金をもらった頃の私の英語力は情けないほど低かった。仕事をしながら覚えてきたわけで、だからあまり自慢できるようなものではない。 私にとっての最初の翻訳が出版されたのは1985年の3月のことで、まあなんとも古い話になってしまう。なぜたいして英語のことも知らない若造に翻訳ができたのかというのは、それはそれでちょっとおもしろい話だが、やたらと長くなるのでここに書くような

    翻訳の思い出 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    osugi3y
    osugi3y 2021/02/01
    編集者って重要ですね。
  • なぜ「忘れ物を叱る」のが無意味なのか - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    忘れ物をしても叱らない教育をしている学校があるとかいうTogetter記事を見て、「そりゃそうだ」と思ったのだが、そこについてるブコメ群のかなりの部分を占める意見が否定的なのに驚いた。いや、ほんとに驚いた。 b.hatena.ne.jp もちろん、「叱ってもいいことない」という論調に賛同するコメントもないことはないのだけれど、「いや、それは当人のためにならないだろう」という意見が多い。ああ、地獄への道は善意で舗装されてる、と思った。 もともと教育現場で「叱る」という行為が横行していることに関しては別途思うところがあるのだが、そこまで話を広げると収拾がつかなくなるので、そこはおくとしよう。教師が叱ることが場合によっては認められるとした上で、なお、少なくとも忘れ物に関しては効果はほとんどない。それは私自身がほとんど常にクラスいちばんの忘れ物王者であり、そしてそれはいくら叱られたってなおらなかっ

    なぜ「忘れ物を叱る」のが無意味なのか - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    osugi3y
    osugi3y 2021/01/25
    今日っつうか昨日2017年版のGakkenの発達障害の動画見てたらADHDと自閉症スペクトラムって別の物と扱われてた。2017年時のものだが。適切に叱ったり叱ったあとのフォローこそ大事だがそれができないならしかるべきではない
  • なぜ学校はワープロを受け入れない? - 「現実」に過適応していると未来が失われる - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    私の観測範囲だけのことではあるのだけれど、現代の小学校、中学校、一部の高校においては、パソコンを使用した提出物を受け入れない。もちろん細かいことをいえば例外はあって、たとえば小学校の夏休みの自由課題なんかでパソコンを使った研究みたいなのはあり得る。けれど、パソコンで制作されたもの、たとえば読書感想文であるとか自由作文とか、ワープロ打ちしたものは、受け付けない。もちろん、「ノートまとめ」とか、「自主勉帳」みたいなのをワープロ打ちすることも許されない。 「なんで?」と思うのだけれど、これにはちゃんと理由がある。まずひとつには、「パソコン使ったら漢字を覚えないでしょう」というものだ。それから、「人が書いたのか筆跡でわからない」というのもある。人の代わりに親が書いたのかもしれないし、ネットから拾ってきてコピペしたものかもしれない。そういう不正を防ぐために、ワープロ打ちは認められない、というもの

    なぜ学校はワープロを受け入れない? - 「現実」に過適応していると未来が失われる - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    osugi3y
    osugi3y 2020/01/09
    生徒本人の負担も軽減されるし、教育者である筆者の暗号解読に費やす労力からも解放されるのでなぜ個別的に許可しないのか全く謎の風習ではある
  • 障害を個性と言い切れる時代まで、まだまだ遠い - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    障害者について何かを書けるほど、私は障害者のことを知らない。もちろん身近にも障害者はいて、たとえば老齢の父親は近頃、障害者手帳を交付された。役所に行って手続きをしたのは私だから、これはまちがいない。ただ、だからといって障害者のことが以前よりもわかるようになったかといえば、やっぱりわからない。父親は父親だし、他の障害者はまったく別な困難を抱えているのだろう。百人百様、単純に括ってしまえないのが人間であり、障害者は特にそうなのではなかろうか。個性的という言葉の文字通りの意味に立ち返れば、まさに個性的なのが障害者だともいえるのだろう。 ただ、そんななかで、「障害者として生きることは生易しいことじゃないんだろうなあ」と想像させてくれる経験は、少しだけある。家庭教師としての私の生徒の中にひとり、生まれついての身体障害を抱えた中学生がいるからだ。職業上知り得た事柄には守秘義務もあるしプライバシーも大切

    障害を個性と言い切れる時代まで、まだまだ遠い - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    osugi3y
    osugi3y 2019/06/29
    家庭教師はしたことがないが教え子に夢の設定をするところから始まるのかとの気づきを得た。その夢が実現不可能なことや虚偽を言ってしまっては信頼を失ってしまうなと思った。現政権の大本営発表がそれにあたる。
  • 人に死ぬ時期を決める自由はない、という話 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    半年ほど前から、老齢の父親の調子がよくない。それでもどうにか生きながらえて年を越すことができた。感謝すべきなのだろう。 だが、素直に喜べないのは、病床にあって父親が日々苦しんでいるのを知っているからだ。循環器系にガタがきていて、身体全体に酸素が足りない。高山で生活しているようなもんだから、とにかくしんどい。そのしんどさを耐え忍んでも、その先にそれが改善する見込みはほとんどない。よくて現状維持、わるければ、いつでも最期がくる。そういう状態でいる人を前に、それでも「生きていてよかったね」とは、素直に言えない。 父親は、決して命に未練があるタイプではない。むしろ、無意味な延命治療はしてくれるなと、これは元気なうちからずっと言い続けてきた。過去に何度か大病を生き延びてきているので、医療に対する信頼は厚い。治る病気なら、現代医学の力で必ず治るものだと信じている。そして、治らないのなら、ムダな抵抗はせ

    人に死ぬ時期を決める自由はない、という話 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    osugi3y
    osugi3y 2019/01/02
    人が人の死ぬ時期を決める自由はないが自分の死ぬ時期については死ぬ時期を決める自由がほしいというのが本音のところだ
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