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思考に関するpadma37のブックマーク (2)

  • 坂のある非風景 私の言葉が終わるとき

    「言葉を信じる/信じない」といった宣言がある。ということは、言葉は私の外にある何かである。そして私の外にある何かによって、私だけの世界が成立する。私だけの世界は、私の言葉が終わるときに全的な終焉を迎える。それをひとつの死の定義と考えたい。 言葉に触れる手段は二種類しかない。昼に触れるか、夜に触れるか、である。昼に触れるものを詩人と呼び、夜に触れるものを言語学者と呼ぶ。それは駆使する人と探究する人だ。しかし以前、このブログでベケットの作品に触れたとき、「純粋小説」、<言葉は用法にある>というヴィトゲンシュタインの言葉を紹介したが、探る人は使う人であらねばならないといった意味に読み取れる。夜に言葉に触れる人は昼に触れる必要があるということだろうか。また大江健三郎と中上健次の対談でロシア・フォルマリズムが中心的な話題となっていたことを思い出せば、昼に触れる言葉こそが夜に触れる言葉の先にある。 ふ

  • いつかすべての再生のために - 東京永久観光

    この曲を聴くとあの頃が懐かしい、というのは誰にでもある。 すっかり忘れていた自分の気持ちがふいによみがえる。そのとき見ていた風景や、一緒にいた人の顔や声、べていた物の味や匂いまで思い出す。 自分がつけた日記を読み返すことでも、そういうことは起こりうるのかというと、起こりうるように思う。 ただし、日記というのは、文章をあらかじめ書いておかないといけないし、その文章をいちいち読まないといけない。それに比べ、懐かしの流行歌は、べつに記録したわけではなく、意図して記憶すらしたわけではない。それなのに、そのときの心や体の状態をあたかもそのまま保つかのような働きを自動的にしてしまう。 今、デジカメで何気なく撮っている写真というのは、ちょうど流行歌と日記の中間くらいに手軽で自動的な記録行為かもしれない。そして将来その写真は、忘れてしまった思い出の再生を、ひょっとしたら流行歌や日記を超えるほどの強度と詳

    いつかすべての再生のために - 東京永久観光
    padma37
    padma37 2008/06/26
    なるほど。
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