ダダダダーンという音の流れに意味はない。一応。 左のとんがりから右のギザギザまでの流れにも意味はない。一応。 しかし、たとえば「カナシイ」や「チョウマジヤバインデスケド」といった音の流れには、なぜか意味がある。(そもそもこのこと自体がチョウマジヤバイと私はつくづく思うのだが、それは今日はさておき) 言語が「意味をもつ」とは、たとえばクラクションや赤信号が果たすこととは比較にならないほど複雑であるらしい。それをまず踏まえる必要がある。 それでもなお、音楽や風景はそうした言語の代わりには絶対にならないのだろうか? 今のところいろいろ使い勝手が悪いだけということではないのか? もし音楽や風景が言語と同等の役割を果たしたら、それは「言語」と定義すべきか? 岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書)には、ベートーベンの交響曲第5番第1楽章は、フレーズが「しかし」とか「ゆえに」といった接続詞でどんどんつなが