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表現と言葉に関するpadma37のブックマーク (3)

  • 坂のある非風景 私の言葉が終わるとき

    「言葉を信じる/信じない」といった宣言がある。ということは、言葉は私の外にある何かである。そして私の外にある何かによって、私だけの世界が成立する。私だけの世界は、私の言葉が終わるときに全的な終焉を迎える。それをひとつの死の定義と考えたい。 言葉に触れる手段は二種類しかない。昼に触れるか、夜に触れるか、である。昼に触れるものを詩人と呼び、夜に触れるものを言語学者と呼ぶ。それは駆使する人と探究する人だ。しかし以前、このブログでベケットの作品に触れたとき、「純粋小説」、<言葉は用法にある>というヴィトゲンシュタインの言葉を紹介したが、探る人は使う人であらねばならないといった意味に読み取れる。夜に言葉に触れる人は昼に触れる必要があるということだろうか。また大江健三郎と中上健次の対談でロシア・フォルマリズムが中心的な話題となっていたことを思い出せば、昼に触れる言葉こそが夜に触れる言葉の先にある。 ふ

  • 生涯、一馬鹿宣言。 - ちゃずけのはてなにっき

    「頭を冷やす」の文字どおり気温が下がると我にかえる人がいるようで。 知り合いの奥様の「電波、温度差説」が証明されたみたい、なるほど。 それはともかく昨日なんであんなに驚いたのかよく考えてみるとやはりどこかに 「こんないいかげんな馬鹿書いて、好きの嫌いのとよく知りもしないことを勝手にごちゃごちゃ口だして」 なんて思ってるプチブル小市民な自分がいて、もう「不惑」だしいつまでもこんなことやってちゃいけねえよな、 とまるでヤンキーが「ゾク」を抜ける時のような「年齢制限」を設けてたケツの穴の小ささに気がついた。 ああ、情けないぞ、自分、なに社会性出してんだよ、まだまだ先人が馬鹿やってるじゃないか、 50前にしてまだお馬鹿やってる先輩がいるんだ、後に続けッ!と、オノレに「喝!」 (あきらかに気温に関係のない電波) そろそろもう少し落ち着いた「芸風」で日記をつけるべきじゃないかと思ってた矢先、 このよう

    生涯、一馬鹿宣言。 - ちゃずけのはてなにっき
    padma37
    padma37 2007/04/06
    『敵なんか誰もいないのに「シチュエーション」作って妙に萌える人』って、ココロにゆとり(笑)のあるヒトなのかなあ、と思ってみたり。
  • なぜ僕はすぐにブログをリセットするのか

    http://anond.hatelabo.jp/20070403101744 ひとえに自信がないからだよ。 ネタにとか、表現にとかいう問題ではなく、もっと根源的な、自分というものに対する自信。 自分自身をエントリーという枠組みの中で語り、残し、晒すことへの恐怖感、嫌悪感、重圧感。 ブログをリセットするのは、長々とエントリーとして自分の声を残しておくことに耐えられないからだ。 発言した僕の声がインターネットという巨大な機械の歯車として組み込まれていくことに絶えられないからだ。 僕は現実世界でも苦悩する。 人との会話での何気ない発言を、いつまでも後悔しているんだ。 ああ、なぜ僕はあんなことを言ってしまったのだろうか、と。 それがどんな影響を与えるか知らないけれど、人の心に組み込まれ、社会全体に溶け込んでいくことへの恐怖感、嫌悪感、重圧感が僕を苦しめる。 リセットできない現実の発話行為。 リセ

    なぜ僕はすぐにブログをリセットするのか
    padma37
    padma37 2007/04/05
    『言葉が主体から独り立ちし、他者の物となってしまう結末も知らないで』そして取り戻そうとして、ドツボにはまる、と。
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