ブックマーク / sunakago.hateblo.jp (2)

  • これは対幻想2.0だ。 ――東浩紀『セカイからもっと近くに』の歴史性 - 鳥籠ノ砂

    東浩紀『セカイからもっと近くに』(2013)は「著者最初にして最後の、まったく新しい文芸評論」として書かれた。このことは翻って、エッセイ集などを除く東浩紀の著作には「文芸評論」が存在しなかったこと、すなわち文学的作品それ自体を対象にした批評がなかったことを意味するだろう。あの『動物化するポストモダン』にせよ『ゲーム的リアリズム』にせよ、その論で扱われているのは作品の位相を下支えする環境の位相であって、作品そのものではない。かつて出版された「東浩紀コレクションLSD」の副題が明確に示しているとおり、彼の評論は「文学環境」と「情報環境」についてのものだったというわけだ。 東浩紀は『セカイからもっと近くに』のなかで「セカイ系」の問題を取り上げ、現実と虚構の再縫合を試みようとしている。セカイ系の問題とは、政治的な想像力と文学的な想像力が乖離してしまったこと、要するに共同的な幻想と個人的な幻想が切

    これは対幻想2.0だ。 ――東浩紀『セカイからもっと近くに』の歴史性 - 鳥籠ノ砂
  • 批評とは何か? ――エドワード・サイード『知識人とは何か』『人文学と批評の使命』について - 鳥籠ノ砂

    エドワード・W・サイードは『知識人とは何か』(1994)と『人文学と批評の使命――デモクラシーのために』(2004)のなかで次のように問うている。知識人、あるいは人文学者や批評家とはどのような存在であり、彼らは民主主義においてどのような使命を背負っているのか。すなわち、知識人はどのような領域を代表(代理=表象)しなければならないのか、人文学者や批評家が代表(代理=表象)しうる圏域はどこからどこまでなのか。 サイードにとって、知識人は国家と伝統から離脱した存在でなければならない。すなわち知識人は、なんらかの国家や伝統を特権化してはならないということだ。彼らは故郷としての国家を喪失した者になり、伝統に対して周辺的な存在になる。要するに彼らは、特定の立場を持たないという立場を保持することになるだろう。サイードは、こうした知識人の行為を知的亡命と呼んでいる。柄谷行人ならば、それをトランスクリティー

    批評とは何か? ――エドワード・サイード『知識人とは何か』『人文学と批評の使命』について - 鳥籠ノ砂
  • 1