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書店に行くと「教養」を謳う雑誌や本の多いこと。 ひと昔前のマジックワード「品格」「大人の~」と一緒やね。本来ソレが足りなかったり欠けていることを指摘して、その雑誌なり本を「買う」ことで補完できるというレトリック。あるいはソレに価値を見いだしている自尊心をくすぐるテクニック。騙されるほうが馬鹿なんだが、わたしもよく騙される(レジまで騙されたら負け)。 つまり「教養」を人質に、コンプレックスを煽るビジネスなのだ。 エセ教養人の手口 「ビジネスリーダーに求められる教養」とか「人生を豊かにする教養」という惹句で、人間関係を円滑にしたり信頼関係を築くためのツールとしての「教養」が重要だという。で、よくよく聞いてみると、ただの雑学や豆知識だったりする。要するに、アイスブレイクや知的マウンティングに使える小話のことを、「教養」と呼んでいるにすぎぬ。 そうやって「教養人」を名乗り、まとめサイトやWikip
メイン画像:『スリー・ビルボード』 ©2017 Twentieth Century Fox 胸を打つスピーチを締めくくったある言葉 『第90回アカデミー賞』はギレルモ・デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』の監督賞、作品賞など4部門受賞で幕を閉じた。 各部門で受賞者が心に響くスピーチを行なったが、中でも『スリー・ビルボード』で主演女優賞に輝いたフランシス・マクドーマンドのスピーチはハイライトの1つだった。彼女のスピーチは感動的であると同時に視聴者の脳裏に1つの疑問を残した点でも話題を読んでいる。 彼女はスピーチの途中でトロフィーを床に置くと、その場にいるこの日の女性ノミニーに立つように促した。「メリル、あなたがやればみんなやるから」と言われて立ち上がったメリル・ストリープをはじめ、『シェイプ・オブ・ウォーター』のサリー・ホーキンス、『レディ・バード』のシアーシャ・ローナン、グレタ・
文学部・文学研究科卒業セレモニーで、文学部長・文学研究科長として式辞を読みました。急いで作ったので推敲も十分ではなく、また私の人文学観にはさまざま異論もあるかもしれませんが、とりあえず記録の意味で掲載しておきます。 ===== 式辞 金水 敏 2017 年 3 月 22 日 みなさま、本日はご卒業・修了まことにおめでとうございます。これから卒業証書、学位記を受け取られるみなさまにおかれましては、これまで大阪大学で過ごされた日々のことを懐かしみ、またこれから進まれる就職、進学等について希望と不安に胸を膨らませていらっしゃることと思います。 さて、ここ数年間の文学部・文学研究科をめぐる社会の動向をふり返ってみますと、人文学への風当たりが一段と厳しさを増した時期であったとみることが出来るでしょう。平成 25 年から 26 年にかけて、全国国立大学で「ミッションの再定義」ということが行われましたが
「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」。今年3月、大阪大学の文学部長が卒業セレモニーで述べた式辞が、ツイッターで話題になっています。世間からの「文学部って何の役に立つの?」という声に対する考えを語ったものです。どんな思いが込められているのか? 話を聞きました。 【画像】式辞全文はこちら。「税金を投入する国立大学では…」「人間として自由であるためには…」など 大阪大学文学部長で、大学院文学研究科長も務める金水敏さん。話題になっているのは、今年3月に開かれた文学部・文学研究科の卒業・修了セレモニーでの式辞です。 「みなさま、本日はご卒業・修了まことにおめでとうございます」と始まり、ここ数年間の文学部・文学研究科をめぐる社会の動向について、「人文学への風当たりが一段と厳しさを増した時期であったとみることが出来るでしょう」とふり返ります。 「税金
【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ | 青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編 村上春樹氏の全文が掲載されているサイトがあったとのこと(Ruben5さん ありがとうございます)。 改めて意訳してみます。 ここ3日はこの話ばかりだなぁ。。。 しかし一昨日に訳した抜粋版 とはニュアンスが異なる点も多いですし、記載されてなかった父の記憶などのエピソードもあるので、再度訳す価値があると思います。 (池田信夫ブログ ではこのスピーチに関する賛否意見が活発に交わされています) 出典は「Haaretz」 というイスラエルの新聞のサイトです。 ----------------------------------------------------------------------------------------- -常に卵の側に- 村上 春樹 私は
3000人を超える新入生、そして約6000人のご家族のみなさま、その思い出に深く刻まれるであろうこの時をここに共有できることを光栄に存じます。 そして本学への入学を許可された新入生のみなさんが、本当に東京大学で学んでよかったとの深い喜びを抱いて卒業の日を迎えられることを心から願い、そのために本学の一員として微力を尽くしたいと考えます。 入学にあたり、新入生のみなさんには期待もあれば不安もあるでしょう。現在の心境も、各人各様かもしれません。大学で過ごす毎日が始まるこの時期に、これからの時間はどのような選択の場面なのか、ということをいくつかの観点から考えてもらいたいと思います。 まず自分自身にとっての選択。みなさんは、駒場キャンパスの教養学部において前期課程を過ごすことになります。東京大学は、高校卒業・大学入学段階の限られた知識・情報や先入観を頼りに学生がその専門を選択するのは適切ではないと考
戦後70年に当たる本年、皇后と共に、パラオ共和国を訪問できましたことは、誠に感慨深く、ここにレメンゲサウ大統領閣下のこの度のご招待に対し、深く感謝の意を表します。今夕は、私どものために晩さん会を催してくださり、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉を頂き、ありがとうございました。また、この訪問に合わせ、モリ・ミクロネシア連邦大統領ご夫妻、ロヤック・マーシャル諸島共和国大統領ご夫妻がここパラオ国をご訪問になり、今日、明日と続き、私どもと行動を共にしてくださることも誠にうれしく、心より感謝いたします。 なお、この度の訪問を前にして、ミクロネシア連邦を襲った台風の被害を耳にいたしました。ここに犠牲になられた方々を悼み、ご遺族へのお悔やみをお伝えするとともに、被害を受けた大勢の方々に心よりお見舞い申し上げます。地域の復興の一日も早いことを念願しております。 ミクロネシア地域は第一次世界大戦後、国際連盟
(原文のまま) 本日ここに、平成二十七年度信州大学入学式を開催できますことは大きな慶びでございます。関係の皆様に深く感謝を申し上げます。 新入生の皆様、ご入学おめでとうございます。信州大学は全学を挙げて皆様を歓迎いたします。そして、ご両親、ご家族の方々に心からお慶びを申し上げます。おめでとうございます。 皆様が本日入学式を迎えることができましたのは、厳しい受験勉強を克服された努力の結果であります。と同時に、励まし頂いたご家族、ご友人そしてご指導頂いた先生はじめ多くの方々のお陰だということを改めて深く胸に刻み、感謝の気持ちをいつまでも持ち続けてください。 そして、留学生の皆様は母国を離れ、言葉、文化、生活習慣の異なる信州のこの地に生活することになりました。初志を貫徹され、四年後に大きな成果を挙げられることを期待しております。 また、信州大学大学院にご入学された皆様にも、心からお祝いを申し上げ
石巻市出身の菅原彩加さんが東日本大震災4周年追悼式で宮城県の代表として被災者の思いを代表するスピーチをしました。 菅原彩加さんが3月11日に行ったスピーチの内容がネット各所で話題になりました。 スピーチの内容は震災当日のエピソードと震災後の出来事について語り その震災当日の話の中で瓦礫の中に実の母親を石巻市出身の菅原彩加さんが東日本大震災4周年追悼式で宮城県の代表として被災者の思いを代表するスピーチをしました。 菅原彩加さんが3月11日に行ったスピーチの内容がネット各所で話題になりました。 スピーチの内容は震災当日のエピソードと震災後の出来事について語り その震災当日の話の中で瓦礫の中に実の母親を残して津波から逃げてきたという壮絶なエピソードが語られました。 菅原さんのスピーチ泣いた — こば (@ryosuke080911) 2015, 3月 11 「行かないで」がれきの中から母の声、助
出典:産経ニュース 2015年3月11日、東日本大震災の発生から4年目を迎えた日に行われた政府主催の東日本大震災4周年追悼式にて、当時15歳の中学生だった菅原彩加さんが遺族代表での言葉です。 宮城県・石巻市出身の菅原彩加さん(19歳) 出典:佐賀新聞 スピーチ全文 私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。 小さな集落でしたが、朝、学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん!元気にいってらっしゃい!」と声を掛けてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。 あの日、中学校の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起きました。逃げようとした時には既に遅く、地鳴りのような音とともに津波が一瞬にして私たち家族5人を飲み込みました。しばらく津波に流された後、私は運良く瓦礫の山の上に流れ着きました。その時、足元から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見るとくぎや木が刺さり
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話題: 昨日、遺族代表として震災体験スピーチをよんだ石巻市の菅原彩加さんが話題になっている。 経緯と流れ: 昨日の東北大震災追悼式で彼女が読んだスピーチが壮絶な体験すぎると世間では衝撃の声が流れた。 また、母親とのやりとりを綺麗事にせずリアルに話した内容は評価されるべきという声も多い。 しかし、ネットでは母とのやりとりの一文から「母を見捨てた女」というレッテルが貼られ飛躍して一気に「胡散臭い女」という事になりいっせいにあら探しが始まる事となった。 また、そのあら探しの最中に彼女がツイッターで自身を賛美したり絶賛するつぶやきをこれでもかというほどRTしたりお気に入りに入れたりとしている姿が露呈しその作業は加速することとなった。 ネット掲示板の彼女に対する批判と矛盾内容(一部真偽不明・こじつけた叩きあり): ・近くの小学校には屋根がなかった。屋根に登れるわけがない。 ・過去の体験談と一部改変さ
話題: 遺族代表・菅原彩加さんのスピーチの内容に感動すると話題になっている。 スピーチに関する世間の感想 菅原彩加さんのスピーチ内容が話題になった経緯は決してキレイ事ばかりを書いていないという点であった。 地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして菅原彩加さんら家族をのみこんだ。そんななか運良く生き残った彼女。瓦礫に挟まった変わり果てた母を助けることができなく見捨てるしかなかった事や小学校へと泳いで渡ったという内容にその当時の状況の悲惨さがわかることとなった。また、母親を置いて自分一人でもなんとかして助かろうとした判断や決断に関しては肯定する声が多く、その判断のおかげで今も彼女が生きていることに祝福する声が流れることとなった。過去に津波の恐ろしさを間近で体験していることもあって何度かスピーチを読んでいる彼女、2011年の頃から明らかに成長していることもわかり、時間の経過を感じさせるとともに強く
東日本大震災4周年追悼式で宮城県の遺族を代表して言葉を述べる菅原彩加さん=11日午後3時21分、東京都千代田区の国立劇場、代表撮影 | 朝日新聞社 「生きていくことが家族への恩返し」 19歳の遺族代表政府主催の東日本大震災の追悼式が11日午後、東京都千代田区の国立劇場であった。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相ら約1120人が参列。被災3県の遺族代表が追悼のことばを述べた。宮城県代表は、母(当時35)と祖母(同64)、曽祖母(同83)の3人を津波に奪われた菅原彩加(さやか)さん(19)。《15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました》。白菊で飾られた祭壇に向かい、読み上げた。中学の卒業式から戻った後だった。石巻市大川地区の自宅で大きな揺れに襲われた。家族は、買ったばかりのテレビが倒れることを心配していた。その矢先。濁流にのまれた。気づくとがれきの山の上だった。足元から低い
政府が11日に開いた東日本大震災4周年追悼式で、宮城県の遺族を代表して菅原彩加さんが思いを述べた。全文は次の通り。 私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。 小さな集落でしたが、朝、学校へ行く際、すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声を掛けてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。 あの日、中学校の卒業式が終わり、家に帰ると大きな地震が起きました。逃げようとした時には既に遅く、地鳴りのような音とともに津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。 しばらく津波に流された後、私は運良くがれきの山の上に流れ着きました。その時、足元から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見ると、くぎや木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、がれきをよけようと頑張りましたが、私1人にはどうにもならないほどの
■東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加(さやか)さん(19)=石巻市出身=のことば 私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。 小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。 あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。 しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んで
3月11日、東日本大震災追悼復興祈念式における宮城県遺族代表・菅原彩加さんのことば。震災で瓦礫の下敷きになっている母親を残し、ひとり生き残ってしまったというつらい体験を告白した彩加さん。震災から4年経った今、「前向きに生きることが、亡くなった家族への恩返し」と、これからの人生を力強く生きていくことを誓います。 瓦礫の下に母親を残し… 菅原彩加さん:私は、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。小さな集落でしたが、朝学校へ行く際、すれ違う人みんなが「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、あったかい大川がとても大好きでした。 あの日、中学の卒業式が終わり、家に帰ると大きな地震が起きました。逃げようとしたときには、すでに地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人を飲み込みました。 しばらく津波に流された後、私は運良く瓦礫の山の上
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