かつて、台湾が日本の一部だった時代があった。日本の台湾統治は、1895年の日清戦争の勝利で始まり、1945年の太平洋戦争の敗北によって、ちょうど半世紀で終止符を打たれた。50年という時間は決して短くない。日本と台湾は、統治と被統治という不平等な関係ではあったが、台湾の近代化に貢献しようと頑張った日本人も多かった。結果として、台湾では建築や鉄道など多くの「日本」が残され、いまもなお生きている。その一方で、姿を消した「日本」も少なくない。地名の大半は、孫文や蒋介石など指導者の名前から取った「中山路」や「中正路」や中国の地名に改められた。日本人の信仰の対象であった神社もまた、消え去った「日本」だとすっかり思われてきたのだが、このところ、いささか様子が違うのである。 (ジャーナリスト・野嶋剛/Yahoo!ニュース編集部) 日本統治時代に、無数の神社が台湾に建てられたが、日本人が去ると管理する者もな
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日本の「軍艦」などを祭っている台湾南部・高雄市の道教霊廟(れいびょう)「紅毛港保安堂」の新堂が完成し、仮堂から神像や神艦を遷座する落慶祭がこのほど行われた。 高雄は日本統治時代、海軍と軍港の街として知られた。同堂によると、終戦直後、漁師が漁網にかかった頭蓋骨を地元の廟に祭って慰霊したところ、大漁が続いたため、1953年に保安堂を建立。その後、頭蓋骨が「日本海軍38号哨戒艇の艇長」を名乗って漁師の夢枕に立ち、「部下を日本へ連れて帰れなかったのが残念」と語ったと伝えられている。そこで漁師有志が90年ごろ、「魂だけでも帰れるように」と、「日本の軍艦」の模型を作り神艦「38にっぽんぐんかん」として奉納、追悼供養したという。 港に面した旧堂は再開発で2007年に移転を迫られ、堂管理委員会では神艦などを仮堂に遷座し、08年から3500万台湾元(約1億2200万円)を投じて新堂を建設。うち100万元(約
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